礼拝説教

一人の従順によって多くの人が義人とされるのです


2023年10月26日

[ローマ書 5:15-19] 15 しかし、恵みの賜物は違反の場合と違います。もし一人の違反によって多くの人が死んだのなら、神の恵みと、一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物は、なおいっそう、多くの人に満ちあふれるのです。16 また賜物は、一人の人が罪を犯した結果とは違います。さばきの場合は、一つの違反から不義に定められましたが、恵みの場合は、多くの違反が義と認められるからです。17 もし一人の違反により、一人によって死が支配するようになったのなら、なおさらのこと、恵みと義の賜物をあふれるばかり受けている人たちは、一人の人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するようになるのです。18 こういうわけで、ちょうど一人の違反によってすべての人が不義に定められたのと同様に、一人の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられます。19 すなわち、ちょうど一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、一人の従順によって多くの人が義人とされるのです。

ここで最もよく使われている単語は「一人」です。使徒はこの言葉を9回繰り返しながら、アダムとキリストを対比(たいひ)しています。アダムの罪が多くの人に転嫁されたように、今やキリストの義が多くの人に転嫁されたと言います。これらは、神学的にそれぞれ原罪論(Doctrine of Original Sin)、原義論(Doctrine of Original Righteousness)と呼ばれています。原罪はアダムを通して、原義はキリストを通して私たちに転嫁されました。それは、一人の人の不従順によって多くの人に死がもたらされ、一人の人の従順によって多くの人が命を得たことを私たちに教えています。

パウロはまた、「復活の章」として知られている<第一コリント15章>において、アダムとキリストの関係を説明しました。 [Ⅰコリント15:45-47] こう書かれています。「最初の人アダムは生きるものとなった。」しかし、最後のアダムはいのちを与える御霊となりました。46 最初にあったのは、御霊のものではなく血肉のものです。御霊のものは後に来るのです。47 第一の人は地から出て、土で造られた人ですが、第二の人は天から出た方です。パウロは「二人のアダム」について話しました。初めの人間であるアダムと第二のアダムがいます。第一のアダムは土地のちりから作られた「血肉のもの」でしたが、第二のアダムであるキリストは「御霊のもの」でした。初めのアダムは“生きもの”(a living being)であり、キリストは“生かしてくださる方(a life-giving spirit)”です。人は生きもの(a living being)となった(創世記2:7)。このように二つのアダムを対比しました(Ⅰコリント15:45)。

上記の一節は、「代表の理論(Doctrine of Representation, Federal Headship Theory, またはFederalism)」ですが、より詳しく言うなら「代表と連帯の理論(Principle of Representation and Corporate Solidarity)」です。「原罪論」はすなわち「連帯の理論」だと言うことができます。アダムが神様の戒(いまし)めを破って堕落してしまったことで、すべての人が罪人になったからです。問題は、どのようにして一人の人の罪がすべての人の罪になったのか、ということです。私たちは罪がその本質上、構造(こうぞう)的(体系(たいけい)的、人間の制度(せいど)や社会によって広められる)であることを知らねばなりません。それゆえ構造悪が存在します。このように、パウロはこの箇所(かしょ)で構造的な罪と悪について説明しています。罪のこの権威(けんい)、権勢はどこから始まりましたか。アダムからです。人体(じんたい)は有機(ゆうき)的です。体の各器官はつながっており、各器官は頭の決定によって制御(せいぎょ)されます。このように、アダムが頭になり、彼の罪がすべての人を支配するようになりました。しかし今、教会の頭となられたキリストを通して、キリストの義が私たちの人生を支配し、私たちの中に命が入って来ました。

漢字に「道(Road、あるいはWay)」という字があります。この文字(もじ)は頭(首(くび)、Head)と歩く(辶、Walk)という2つの文字で構成(こうせい)されています。「道」とは「頭に従って行くこと」です。私たちの人生においても「頭」が重要です。では、私たちにとって「頭」とは誰でしょうか。私たちの古い人は古い頭であるアダムに従いますが、私たちの新しい人は新しい頭なるキリスト、新しいアダムに従います 。これが代表の理論であり、連帯の理論です。

オーストラリアのある原住民(げんじゅうみん)は「あなたの名前は何ですか?」と尋ねられた時、自分の部族の名前を答えるそうです。そのように個人と部族は連帯しています。同様に、私たちはアダムから出た者たちであり、アダムと連帯しているがゆえに、私たちにもアダムの罪 (原罪)があるのです。

では、原罪とは何でしょうか。アダムが犯したこの罪は、あらゆる罪の根源(こんげん)とも言えるもので、彼と連帯している全人類に受け継がれました。その罪とは不信と不従順に他(ほか)なりません。では、この不信と不従順はどこから始まったのでしょうか。「取って食べてはならない」という神様の戒(いまし)めを信じようとせず、それに従わなかったことから始まりました。

<イザヤ書の53章>を見てみましょう。この箇所では、苦難の僕(しもべ)が苦しみを負って死ぬということが語られており、さらには彼の子孫についても触(ふ)れられています。 [イザヤ 53:10] しかし、彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く(すえながく)子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。苦難の僕がいのちを代償(だいしょう)としてささげる(すなわち死んでしまう)なら、どのようにして彼から子孫が生まれ出るというのでしょうか。しかし、聖書には確かに「末長く子孫を見る」とあります。これは新しい子孫が出てくることを意味します。それは種子(しゅし)を改良するようなものです。パウロの語る新しいアダム論を突(つ)き詰(つ)めるなら、「種子改良論」だと言うことができます。それはガラテヤ人へ手紙のパウロの証言にも見られるものです。 [ガラテヤ 2:20] もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。私たちはもともとアダムから生まれた者たちです。私たちは肉によって(通常の誕生によって)この世に生まれました。しかし、肉によって生まれた古い私は死に、キリストを通して新しく生きるようになりました。私たちは新しい種になりました。言い換えれば、アダムを通して生まれた私が死んで、キリストを通して再び蘇(よみがえ)らされた、ということです。それは、罪と死の支配下(しはいか)にいた私が死んで、義と命の支配下にいる私として蘇らされた、という宣言なのです。

<ヨハネの福音書15章>で、イエス様は次のように仰いました。[ヨハネ 15:5] わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。これは代表と連帯の理論です。私たちが神様の永遠の命とその驚くべき豊かさを味わうためには、私たちの罪の根(ね)が取り除(のぞ)かれ、キリストと一つにならなければなりません。[ヨハネ 15:9] 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。私たちは主の愛と主のみ言葉にとどまるべきです。これも代表と連帯の理論であり、私たちは代表である主と一致(いっち)しなければなりません。

連帯の理論、連帯性について、より詳しく見ていきましょう。これと関連して神様が私たちに示してくださった霊的な原則(げんそく)があります。それは、一人の人を通して、契約(けいやく)によって祝福を与えるというものです。私たちがその原則を理解することが極(きわ)めて重要です。[創世記 12:1-3] 主はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族(ぶぞく)は、あなたによって祝福される。」これが代表者であることの意味です。アブラハムという一人の人を通して神様からの祝福がもたらされ、彼が祝福の源(みなもと)になりました。また、祝福の連帯性とは何でしょうか。それは、神様からの召(しょう)命(めい)と祝福が、アブラハム一人のためだけではなく、彼と連帯している多くの人々のためであったことを意味します。そしてこの祝福は、連帯を通して今日の私たちにももたらされるのです。

[出エジプト 20:5-6] 5 それらを拝(おが)んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎(にく)む者には父の咎(とが)を子に報(むく)い、三代、四代にまで及(およ)ぼし、6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

現代の人々は罪を非常に個人的なものとして捉(とら)えています。人々は言います。「私が罪を犯したのであれば、それはあくまで私自身の問題です。私の罪は私個人の罪なのであって、どうしてそこに連帯性を持ち込むのでしょうか?」しかし、聖書は罪と祝福には連帯性があることを明確に教えています。ユダヤ人は共同体的に生きていたため、罪と祝福の連帯性というものを容易(ようい)に理解することができました。それは次のようなものでした。誰かが罪を犯した時、その結果は三、四代にまで及(およ)びます。しかし、善行と義の行いがなされた時、その恩恵は千代にわたって受け継(つ)がれるのです。<出エジプト34章7節>、そして<申(しん)命記(めいき)5章9-10節>を見て見ましょう。[出(しゅつ)エジプト 34:7] 恵みを千代まで保(たも)ち、咎(とが)と背(そむ)きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎(とが)を子に、さらに子の子に、三代、四代に報(むく)いる者である。」/ [申命記 5:9-10] それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、10 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。罪と祝福の連帯性という同じメッセージが聖書に繰(く)り返し出てきます。この御言葉は神様が十戒(じっかい)を与える前のものです。そして、神様は明確に「あなたが私の言葉に従えばあなたは祝福される。その祝福はあなた一人で終わるのではなく、千代にまで受け継がれる」と仰いました。

モーセに反逆したコラの話を考えてみてください。[民数記 16:32] 地は口を開けて、彼らとその家族、またコラに属するすべての者と、すべての所有物を吞み込んだ。コラが罪を犯した時、彼の全家族と彼の所有物さえも罰せられ、滅ぼされました。<ヨシュア記7章>のアカンの犯罪でも、アカンをどのようにされたでしょうか。個人だけが処罰(しょばつ)されたのではありません。グループ全体と家族も同様に罰せられました。罰は罪を犯した人だけで終わったわけではありません。なぜでしょうか。罪と祝福には 連帯性があるからです。ですから、罪が共同体全体に広がることを恐(おそ)れて、イスラエル人はその罪を徹底的(てっていてき)に根絶(こんぜつ)しようとしました。 [ヨシュア 7:24-26] ヨシュアは全イスラエルとともに、ゼラフの子アカンと銀、外套、金の延べ棒、および彼の息子、娘、牛、ろば、羊、天幕、それに彼のすべての所有物を取って、アコルの谷へ運んだ。25 ヨシュアは言った。「なぜ、おまえは私たちにわざわいをもたらしたのか。主は今日、おまえにわざわいをもたらされる。」全イスラエルは彼を石で打ち殺し、彼の所有物を火で焼き、それらに石を投げつけた。26 人々はアカンの上に石くれの大きな山を積み上げた。今日もそのままである。主は燃える怒りを収められた。それで、その場所の名はアコルの谷と呼ばれた。今日もそうである。これは、一人が一人ではないということです。一人ひとりがとても恐ろしい立場に立っています。その一人ひとりには、それぞれ歴史的な約束があります。そして、その歴史的な約束は、単に一個人に限定されたものではありません。したがって、人の善行(ぜんこう)あるいは悪行(あくぎょう)の結果がその人だけで終わるわけではありません。それらは彼の子孫にも影響を及ぼすのです。

<創世記15章>のアブラハムの話に戻りましょう。[創世記 15:9-12] すると主は彼に言われた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩のひなを持って来なさい。」10 彼はそれらすべてを持って来て、真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。ただし、鳥は切り裂かなかった。11 猛禽がそれらの死体の上に降りて来た。アブラムはそれらを追い払った。12 日が沈(しず)みかけたころ、深い眠りがアブラムを襲(おそ)った。そして、見よ、大いなる暗闇の恐怖が彼を襲った。アブラハムは雌(め)牛(うし)、羊を半分に切り裂(さ)きましたが、鳩(はと)を切り裂きませんでした。[創世記 15:13-14] 主はアブラムに言われた。「あなたは、このことをよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。14 しかし、彼らが奴隷として仕えるその国を、わたしはさばく。その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出て来る。神様はアブラハムに、「あなたの子孫に苦難が降りかかるが、その後彼らは解放される」と言われました。これは恐ろしい言葉です。そしてその言葉の通りになりました。エジプトでのイスラエルの民の400年にわたる苦役(くえき)は、アブラハムが鳩一羽(わ)を切り裂くことができなかったことに端(たん)を発していたのです。これが代表と連帯の原理です。

[ヤコブ 5:17-18] 17 エリヤは私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、雨は地に降りませんでした。18 それから彼は再び祈りました。すると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。代表者が祈れば、全世界を干上(ひあ)がらせることができます。その反対に、全地を潤(うるお)すほどの大雨を降らせることで、全世界を生命に満ちたものにすることもできます。これが代表理論です。

パウロは<5章>に至るまでに、この代表理論について何度も説明しました。たとえば、<ローマ書3章24-25節>では、3つの比喩(ひゆ)を用(もち)いて代表理論を説明しました。[ローマ 3:24-25] 神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価(あたい)なしに義と認められるからです。25 神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥(なだ)めのささげ物として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。神は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃(みのが)してこられたのです。ここでは、3つの比喩が用(もち)いられています。まず、奴隷(どれい)市場の比喩です。誰かが対価(ransom)を払って奴隷を購入します。これは贖い(redemption)と呼ばれます。第二は、法廷において罪人が義と宣言される法廷の比喩です。第三は、祭祀(さいし)の比喩です。私たちの罪を贖う贖罪(atonement)のための「宥(なだ)めのささげ物(Propitiation )」という祭祀用語(さいしようご)が使われています。これら3つの比喩は、すべて代表理論の例です。

代表理論の原則は、世においても厳格(げんかく)に採用(さいよう)されています。たとえば、ある国のトップが自国を売ってしまったとしましょう。全国民の運命は、彼が締結(ていけつ)し、署名(しょめい)する協定の公文書(こうぶんしょ)にかかっています。別の例で言えば、ある建物(たてもの)の所有権というのは法的文書によって決定されます。代表が契約書に署名することによって所有権が譲渡(じょうと)され、その影響(えいきょう)は全構成員(こうせいいん)に及(およ)ぶようになります。

[ローマ書 5:20-21] 20 律法が入って来たのは、違反が増(ま)し加(くわ)わるためでした。しかし、罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。21 それは、罪が死によって支配したように、恵みもまた義によって支配して、私たちの主イエス・キリストにより永遠のいのちに導くためなのです。

ここで、パウロは永遠の命の賛美歌を歌い、歓喜(かんき)に満ちて踊(おど)っています。死に支配されたこの罪深い世界で、人類がどれほど苦しんできたでしょうか。パウロは、「おぉ、キリストによって新しい世界を味わった人々よ。あなたがたは永遠の命を歌い、新しい命の賛美歌を歌いつつ、王のように統治(とうち)するのだ!」と賛美するのです。<第二コリント人への手紙5章17節>にあるように、古い歴史は過ぎ去りました。[Ⅱコリント 5:17] ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。死と呪いと罪悪の歴史は過ぎ去ったのです。Ω

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