礼拝説教

神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです


2023年11月21日

*本文: ローマ人への手紙 6章17-23節

[ローマ書 6:17] 神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規範(きはん)に心から服従し、

この言葉を聞く時、私たちの心に迫ってくるものがあります。かつての私たちは罪に捕えられ、自らの自由を少しも主張できなかった者たちでした。自分の本性も願わないあらゆる欲望の虜となって、悲惨な人生を生きていた者たちでした。罪は日に日に深刻さを増してゆき、その行き着くところは破滅でした。しかし、今はどうなったでしょうか。それらのものから解放されて、義のしもべとなりました。<17節>には「伝えられた教えの規範に心から服従し」とあります。<テモテへの手紙第二の1章>には、次のような御言葉があります。[Ⅱテモテ 1:13] あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛のうちに、私から聞いた健全な言葉を手本にしなさい。パウロの言う「手本とするべき言葉」とは「キリスト・イエスにある信仰と愛」です。彼は「心から従順すること」によって義のしもべとなったと語ります。「心から」ということが重要です。強いられてそうするのではありません。私たちがどのようにして罪から解放され、義のしもべとなったのでしょうか。イエス・キリストにある信仰と愛の話を聞き、それを心で受け入れ、「自ら」神様のしもべとなりました。これは世俗的なしもべとは違います。自ら進んでそうなることを願った「愛のしもべ」です。私たちが愛のしもべとして歩む信仰の道には、喜びが満ちています。私たちの霊がそれを証します。その道には疲(つか)れがありません。この道が愛の道であり、私たちが愛のしもべであるからです。

[ローマ書 6:18] 罪から解放されて、義の奴隷となりました。

この句節は次のように読むこともできます。「サタンから解放されて(または悪い暴君から解放されて)神様のしもべになりました。」これがどれほど感謝すべきことでしょうか。かつて私たちが囚われていた惨(みじ)めな罪悪の世界から私たちを救い、その束縛から解放してくださり、神様のしもべとしてくださったその恵みが、どれほど素晴らしいでしょうか。パウロはそのことのゆえに、神様に感謝と賛美を捧げているのです。

[ローマ書 6:19] あなたがたの肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。以前あなたがたは、自分の手足を汚れと不法の奴隷として献げて、不法に進みました。同じように、今はその手足を義の奴隷として献げて、聖(せい)潔(けつ)に進みなさい。

「あなたがたの肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています」とあります。パウロは代筆を通して手紙を書きながら、この手紙の読み手、聞き手となる人々のことを考えています。主人としもべの関係の話がしばらく続いたため、「あなたがたの中には、しもべ(slave)という言葉を聞きたくない者がいるかもしれない。しかし、罪と義について深く伝えるために、あえてあなたがたにとって身近なたとえを用いたのだ」と語りました。奴隷が多かった当時のローマ社会に生きる人々が理解しやすいようにと、パウロはこのたとえを用いたのです。「以前あなたがたは、自分の手足(からだ)を汚れと不法の奴隷として献げて、不法に進みました。」不法とは法を破ることです。罪とは何でしょうか。汚れることです。ですから、それは洗わなければなりません。水で洗い、火で燃やす必要があります。また、罪とは何でしょうか。法を破ることです。良心の法を破ることで、私たちは日々罪責感(ざいせきかん)の下で苦しみ、抑圧されて生きているのです。パウロは言います。「かつて、あなたがたは自分の手足を罪に引き渡していたのではないか。汚れと不法の奴隷として、なす術もなく悲惨に生きていたのではないか」と。そして、「今はその手足を義の奴隷として献げて、聖(せい)潔(けつ)に進みなさい。」パウロはここで、今はあなたがたのからだを義に(または、神様に)奴隷として捧げ、聖潔に進むべきだと語っています。

[ローマ書 6:20] あなたがたは、罪の奴隷であったとき、義については自由にふるまっていました。

ここで言われていることは、どのような意味でしょうか。前述(ぜんじゅつ)したように、主人と奴隷というのは、独占的に所有する・される関係性にあります。ですから、他の誰かがやって来て、自分のものだと主張することができません。「義については自由にふるまっていた」とはどのような意味でしょうか。罪(サタン)によって独占的に所有され、神様がご自身のものとして主張することができない状態にありました。他の誰にも、どうすることもできない状況だったのです。

[ローマ書 6:21] ではそのころ、あなたがたはどんな実(み)を得(え)ましたか。今では恥ずかしく思っているものです。それらの行き着くところは死です。

「罪の奴隷であったとき、サタンの奴隷であったとき、どんな実を得たのでしょうか?」そこには恥ずべき実りしかありませんでした。その終局は「死」です。罪はその性質上、また別の罪を産み出します。そうして徐々に大きくなっていきます。それゆえ最後には死に行き着くのです。言い換えるなら、それは裁きです。私たちが罪の奴隷であった時、私たちの人生は死に向かって走る列車のようなものでした。

[ローマ書 6:22] しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得ています。その行き着くところは永遠のいのちです。

しかし今、罪から解放され、神様の奴隷となりました。それは、私たちが神様の独占的な所有物とされたことを意味します。つまり、これからは神様だけが私の主人となり、私を支配することがおできになるのです。ですから、私たちは今、罪悪の実ではなく、聖潔に至る実を得ていく、全く新しい人生を歩むようになりました。ですから、私たちはますます良きものを積み上げてゆき、最後には永遠の命を得るのです。イエス様は次のように仰いました。[マタ6:20] 自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物(きずもの)になることはなく、盗人(ぬすびと)が壁に穴を開(あ)けて盗むこともありません。私たちがもはや罪の奴隷ではなく、義の奴隷、神様の奴隷となりました。私たちの人生は、やがては腐敗して、消えてしまうもののために生きる人生ではなく、永遠なるもののために生きる人生となりました。恥ずべき罪悪を積み上げる人生ではなく、永遠に残される、誇り高き、素晴らしいものを積み上げてゆく人生になりました。その終局(しゅうきょく)は永遠の命であり、豊かさと喜びが溢れる世界です。

[ローマ書 6:23] 罪の報酬は死です。しかし神の賜物(たまもの)は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

ここで二つのたとえが用いられています。パウロはこれらのものを対比しながら話します。罪の報酬は死です。そして、神様の賜物は永遠のいのちです。ここでの「報酬」には、ギリシャ語のオプソニア(opsōnia, ὀψώνια)という言葉が使われています。当時、ギリシャ語は現代の英語(世界共通語)のようなものでした。ですから、オプソニア(opsōnia, ὀψώνια)という言葉を聞いた人々は、その意味をよく理解できたはずです。これは軍人が汗水(あせみず)流しながら働いて得る報酬(wage)を意味します。もしくは、奴隷が精魂尽き果てるまで、汗を流して働いて受け取る報酬(wage)です。しかし、だとすれば、罪人がそのように熱心に働いて(罪を犯して)得る報酬は何でしょうか。死です。それが罪の奴隷として生きる人生の結末です。

その反面、神様の賜物についてはどうでしょうか。ここで使われている「賜物」という言葉は、英語ではGift、ギリシャ語ではカリスマ(charisma, χάρισμα)、ラテン語では「ドヌム(donum)」となっています。これは皇帝の誕生日や祝祭日に無償で配布される「下賜品(an imperial gift)」です。それを受け取るために、何の努力も代価も必要とされないプレゼントです。これがどれほど喜ばしいことでしょうか。

<23節>は、二つの人生のたとえです。一つは、死にものぐるいの労苦の末に得るものです。そして、もう一つはプレゼントとして与えられるものです。前者は、徐々(じょじょ)に悪事(あくじ)を積み上げていく人生であり、最後には死に至ります。後者は、徐々に善行を積み上げていく人生であり、最後には永遠の命に至ります。世の労苦は、永遠に残ることがなく、最後にはその全てが消え去ってしまうという意味で、無益な労苦です。しかし、キリストにある労苦は永遠に残るものであり、積み上げられていくものです。この二つの対比を通して、パウロが強調したかったことは何でしょうか。それは、私たちに与えられた驚くべき祝福と恵みに対して確信を持つべきだということ、そして、私たちの人生が、神様の義の道具として用いられ、神様の奴隷として生きる人生となり、そうして最後には永遠の命に至る人生になるべきだということです。Ω

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