礼拝説教

律法の必要性と限界


2023年11月27日

*本文: ローマ人への手紙 7章5-8節

[ローマ書 7:5] 私たちが肉にあったときは、律法によって目覚めた罪の欲情が私たちのからだの中に働いて、死のために実を結びました。

私たちが肉体を持って生きている間は、私たちは律法によって引き起こされる罪深い欲情に打ち勝つことはできません。私たちがキリストの外に投げ出された状態にあり、肉にあって生きているうちは、私たちは罪深い欲情を克服することはできないのです。<5節>にある「律法によって目覚めた罪の欲情」とは何でしょうか。これは、律法が私たちの罪を明らかにした場合、本来なら私たちは罪を犯すべきではないのですが、私たちの肉はかえってより罪を犯そうとするのだということです。パウロは、私たちの罪の欲情が私たちのからだの中に働いて、死のために実を結ぶと言いました。自らが犯してしまった罪のゆえに苦痛の中で死ぬしかない、私たち人間のあまりに絶望的な姿です。これがアダムにある人々の悲惨な姿なのです。

[ローマ書 7:6] しかし今は、私たちは自分を縛っていた律法に死んだので、律法から解(と)かれました。その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。

「しかし今は、私たちは自分を縛っていた律法に死んだので、律法から解かれました。」 もはやこれ以上、律法が私たちを罪に定めたり、訴えることはできないとパウロは言います。なぜそのように言えるのでしょうか。私たちは律法に死んだので、律法の束縛から解放されたのです。これは、債務者が死亡した瞬間、全ての債務と告発から解放されるのと同じ論理です。

「その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」私たちはすべての義務と責任から解放されたため、もはや古い文字的な方法によってではなく、新しい御霊によって仕えなければなりません。ここでは<ローマ書2章29節>と同じことが語られています。なぜ、私たちはイエスを信じるようになったのでしょうか。そして、なぜ私たちにはキリストが必要なのでしょうか。パウロはその理由を一つひとつ説明しています。キリストなき人生においては、人は決して守ることのできない律法の訴えの下で、魂の苦痛に苛まれるしかありません。パウロはこれを「律法ののろい」と表現しました(ガラテヤ3:13)。私たちはただ恵みによってのみ、罪からの自由を得ることができます。

[ローマ書 7:7] それでは、どのように言うべきでしょうか。律法は罪なのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。実際、律法が「隣人(りんじん)のものを欲してはならない」と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょう。

「律法は罪なのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう。」パウロはこの箇所で、それまでとは打って変わって、律法が尊いものであると言います。主が教えられたように、律法はその一点一画も決して失われることのないものです(マタイ5:18)。「律法」と「福音」は、神様が人間を救うための二つの御言葉です。

<7節>は<12節>と繋がっています。<12節>において、パウロは 「律法は聖なるものです。また戒(いまし)めも聖なるものであり、正しく、また良いものです」と語っています。律法は神様から私たちに与えられた御言葉であり、聖なるものです。自然を見ても、その中に全て法則があります。宇宙にも全て法則があり、その法則に従って宇宙は運行しています。神様は人間にも法をお与えになりました。もしその法が破られるなら、人間は死んでしまうのです。

「律法が『隣人(りんじん)のものを欲してはならない』と言わなければ、私は欲望を知らなかったでしょう。」恵みの時代の前に、律法の時代がありました。神様が私たちに律法をお与えになった理由は、私たちに罪を知らせるためです。律法がなければ、私たちは罪を知ることができません。十戒を通して貪欲について教えられるまでは、私たちは自分の内にこのような罪が内在していることすら知りませんでした。罪は行動として現(あらわ)れた時にだけ罪になるのだと私たちは考えますが、十戒が貪欲に言及したことで、心の罪も罪なのだと知るようになるのです。(第十戒:「あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない。」出エジプト記20:17)第一に、律法には罪を知らせる役割があります。第二に、律法は人に罪を悟らせ、罪を犯させないように抑制するという、良い役割を果(は)たします。

恵みの福音が強調される時、律法が無価値なものであるかのように誤解される可能性があります。しかし、決してそうではありません。パウロは律法が不要であると主張する律法廃棄(はいき)論者ではありません。彼がここで強調していることは、律法がいかに尊いものであるかということです。福音の最大の証言者である使徒の口を通して語られたことは、律法は決して廃棄(はいき)されるべきものではなく、私たちに不可欠(ふかけつ)なものであるということです。ですから、私たちは律法をよく教えなければなりません。良薬は口に苦いと言います。また箴言では、父親の訓戒(が苦いものだとしても私たちに必要であると言われています。[箴言 15:5] 愚か者は自分の父の訓戒を侮る。叱責を大事にする者は賢くなる。 私たちが神様の法をよく知ってこそ、神様の民として正しく成長できるのです

[信仰の両極端の危険性]
私たちが信仰の道を歩む時、「バランス」を保(たも)つことが非常に重要です。私たちがどちらか一方に偏(かたよ)ってしまう時、私たちの信仰は危機に陥ってしまいます。私たちがその両極端の事例(じれい)を知っておくことで、自らの信仰が危険にさらされないように注意する必要があります。

第一に、私たちの信仰が過度に厳格(げんかく)な律法主義に陥ることです。「律法主義」は「裁き」と「罪に定めること」という二つの言葉で説明することができます。これは、イエスを信じると言いながらも、私たちの中に神様の憐れみと赦しの心が欠けている姿です。これは「無慈悲な僕のたとえ」(マタイ18:23-35)に登場する僕のように、自分が赦しを受けたにも関(かか)わらず、決して他人を赦そうとしない、容赦(ようしゃ)のない姿です。私たちはすでに主の愛を受けた者たちではありませんか?しかし、他人を赦し、愛する代わりに、彼らを罪に定める律法主義に陥るなら、それは実に醜(みにく)い信仰の姿だと言わざるを得ません。

第二に、律法が完全に廃棄されたと考える反律法主義です。もはや律法は廃棄されたのだから、私たちは自由であり、怒りの神様はもういないのだと主張します。いまや恵みの下に置かれているのだから、神様はいつでも私たちを赦し、私たちを裁くようなことはしないということです。これは極端に偏った信仰の姿です。神様が私たちを赦してくださるというのは間違いではありませんが、それは私たちが神様の律法を守るべき責任までも放棄してよい、ということではありません。神様が私たちの罪を赦してくださり、その御怒りから解放してくださったのですから、私たちはより一層真摯に、畏れる心を持って神様の律法を守ろうとすべきではないでしょうか。私たちの信仰において、「怒りの神様」を忘れ、「愛の神様」だけを強調すれば、深刻な問題が起こります。律法の基礎の上に福音があるのです。律法なき福音も、福音なき律法も、どちらも完全なものではありません。どちらか一方が放棄されて、バランスが崩れてしまえば、私たちの信仰は危険に陥ることになるのです。

[ローマ書 7:8] しかし、罪は戒めによって機会をとらえ、私のうちにあらゆる欲望を引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。

<7節>において、パウロは神様の律法を力強く擁護し、律法の機能について語りました。そうして、続く<8節>において、その律法が私たちにどのような危険をもたらし得るかについて教えてくれています。「しかし、罪は戒めによって機会をとらえ、私のうちにあらゆる欲望を引き起こしました。」私たちが神様の律法を聴くことで、かえって罪が私たちに入り込む機会を与えてしまうという危険な霊的状況があります。神様の御言葉によって、それまで隠されていた罪までも全てあらわにされるため、私たちは言いようのない苦痛を感じるようになります。本来ならば、罪のゆえにそこまで苦しむ自分自身を見ながら、自らの罪深さを悟って、救いを切望しなければなりません。しかし、罪人はそうしません。「してはいけない」と言われれば、それをもっとやりたいという欲求を持つのが人間であり、この欲求を克服することは容易ではありません。戒めは必要なものですが、罪人である私たちは、戒めが強調されればされるほど、それを口実に、さらに罪を犯そうという好奇心を持つようになるのです。これが律法の限界です。

たとえば、性教育は有益な面がある一方で、多くの副作用(ふくさよう)もあって、頭を悩ませる問題となっています。人間というのは実に狡猾なもので、拘束(こうそく)や強制のルールが敷かれた途端(とたん)、それらを回避するための驚くべき方法を思い付くのです。使徒がここで話しているのは、私たちがクリスチャン生活の中で実際に経験する世界なのです。

「律法がなければ、罪は死んだものです。」罪刑法定主義という原則があります。法律があってこそ、その法律に従って犯罪を指定することができます。法律がなければ、犯罪は犯罪とはなりません。交通規制のない国には中央線も信号機もありません。それと同様に、私たちが御言葉を知る前には、それが罪だとも知らずに罪を犯し続け、自由気ままに生きていました。しかし、永遠の命の言葉を聴くようになると、むやみに罪の中で生きることはできなくなるのです。Ω

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