礼拝説教

私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します


2023年12月06日

*本文: ローマ人への手紙 7章14-25節

[ローマ書 7:14] 私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は肉的な者であり、売り渡されて罪の下にある者です。

神様の御言葉は確かに聖なるものであり、霊的なものです。しかし、私たちの持つ弱さのゆえに、私たちは罪の誘惑に陥ってしまうのです。律法を破れば、私たちは罪に捕われるようになり、罪が支配権を持つようになります。罪は借金のようなものです。「売り渡されて罪の下にある」とは、借金のために売り渡されたということです。パウロは「罪の下に置かれた」とも「罪の下に捕らえられた」とも言いませんでした。彼は「罪の下に売り渡された」という表現を用いました。それは「贖い(Redemption)」について説明するためでした。「贖い」とは、奴隷制度の下で死ぬ運命にあった奴隷を売買する奴隷市場に由来(ゆらい)する商業用語です。

パウロはここでキリストの「贖い」について語ろうとしました。すなわち、私たちは罪の下に売られて、死ぬ運命にありましたが、キリストが私たちのために命を差し出されたことによって、私たちを救ってくださったということです。そのようにして私たちは贖われ、救い出されたのですが、ここで再び売り渡されたと言われているのは、どういう意味なのでしょうか。それは、救われた私がいて、依然として肉に属している私がいるということです。肉に属している私は、いまだ罪の下に売られて、罪の影響下にあるということです。

[ローマ書 7:15-16] 私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。16 自分のしたくないことを行っているなら、私は律法に同意し、それを良いものと認めていることになります。

「私には、自分のしていることが分かりません。」 自分がしていることが分からないというのは実に悲しいことです。私がしていることが理解できず、したいと思うこともできず、かえって憎んでいることをやってしまうのです。これがクリスチャンの霊的な現実です。私たちに問題を引き起こしている霊的な混沌は、私たちが自分のしていることを理解できないことであり、私たちの願いと行動が一致しないということです。私たちの中にはそのような戦い、葛藤があります。これらは、実際の戦争や紛争よりも深刻で苦しいものです。足にハンデを負った人が立ち上がって歩(こうとしている姿を見たことがあるでしょうか。そこには、歩きたいのに歩けないという深い痛みと苦しみがあります。初めて運転を学ぶとき、自分は右に行きたいのに、車は左に行ってしまいます。心の願いと行動がぶつかり合い、不協(ふきょう)和音(わおん)が生じます。使徒は自分の心の中で起こっている世界について、実に正直に話しているのです。

パウロがコリントで伝道しようとした際、彼は「恐れおののいていた」と言いました。[Ⅰコリント 2:3] あなたがたのところに行ったときの私は、弱く、恐れおののいていました。伝道者パウロの中に何の弱さがあるでしょうか。しかし、信仰とは「弱さの中にある強さ」です。これは強さの中にある弱さではなく、弱さの中にある強さです。私たちには自分が望みもしないことをやってしまうという弱さがあります。主は私たちのその弱さをご存じであり、私たちの心の痛み、悲しみまでもご存じです。そして、主は私たちの痛みに触(ふ)れてくださり、その痛みの中に共にいてくださるのです。

[ローマ書 7:17-20] ですから、今それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪なのです。18 私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。19 私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。20 私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。

使徒は正直な自己告白を通してクリスチャンの霊的現実について教えてくれています。私たちはすでに義とされて神様の子とされましたが、それでも私たちの内には葛藤があります。キリスト教の人間観は何でしょうか。キリスト教は人間をその中に「神様の形としての私」と「罪人である私」の二人の「私」を持つ存在として見ています。カインとアベル、エサウとヤコブ、サウルとダビデのように、私たちの中には葛藤があります。

[Ⅱコリント 4:16] ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。/ [エペソ 3:16] どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。私たちの中に外なる人がいて、内なる人がいます。[Ⅰペテロ 3:3-4] あなたがたの飾りは、髪を編んだり金の飾りを付けたり、服を着飾ったりする外面的なものであってはいけません。4 むしろ、柔和で穏(おだ)やかな霊という朽(く)ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人を飾(かざ)りとしなさい。それこそ、神の御前で価値あるものです。外面的な私がいて、心の中に隠されている私がいます。このように私たちの中に「本来的な私(神様が造られた私)」があり、「非本来的な私」があるのです。私の中で絶(た)えずこの二人の「私」が戦うのです。

<20節>は<17節>と同じことを繰(く)り返し語っています。霊的な識別力(しきべつちから)を持つこと、それこそが信仰の知恵です。「神様の形である私」と「罪人である私」を区別する必要があります。私が罪を犯した時に苦しむ「私」がいます。これをよく見分けなければなりません。私が自分自身を見る時、美しい自画像(じがぞう)と醜(みにく)い自画像の両方があります。パウロは、醜い自画像は偽りのものであり、本来の私ではないと言っています。これが私を欺(あざむ)き、私の中に入ってきたものです。これが私を捕(と)らえようとする偽りの勢力です。

パウロは、「神様の形である私」と「罪人である私」を正確(せいかく)に区別していたため、人間存在について非常に楽観的(らっかんてき)な見方(みかた)をしていました。オネシモについて書かれたピレモンへの手紙を見てください。この手紙は、奴隷であるオネシモに出会ったパウロからの美しい手紙です。オネシモは罪を犯して主人であるピレモンの元から逃亡(とうぼう)しましたが、後にキリストにある兄弟となりました。

私たちが人を見る時、本当にたくさんの問題が見えてきます。魂の貸借(たいしゃく)対照表(たいしょうひょう)(balance sheet)を見るなら、一人ひとりに様々な問題があることでしょう。しかし、それらは「私」ではなく「罪」なのです。罪が人々を抑圧(よくあつ)し、苦しめているのです。罪は不法(ふほう)占拠者(せんきょしゃ)であるため、所有者は彼に立ち去るように命(めい)じなければなりません。主が私たちを愛してくださると言う時、それは私たちの罪を愛しておられるということではありません。罪の邪悪さの下でうめき声を上げている、傷ついた魂を愛されるのです。

[ローマ書 7:21-24] そういうわけで、善を行いたいと願っている、その私に悪が存在するという原理を、私は見出します。22 私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいますが、23 私のからだには異(こと)なる律法があって、それが私の心の律法に対して戦いを挑(いど)み、私を、からだにある罪の律法のうちにとりこにしていることが分かるのです。24 私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

この使徒以上に、神様の前に正直な姿で立つことができるでしょうか。クリスチャンの中には、この実存的な分裂(ぶんれつ)と闘争(とうそう)と対立があります。そして、その中には、嘆(なげ)き悲しみ、うめき声をあげる魂がいます。キリストと共に十字架その中に私ではない私がいるのです。この使徒の告白は、私たちの霊的な実存(じつぞん)についての告白です。これは、罪との闘争の真っ只中(ただなか)に置かれた聖徒たちの姿を描(か)いたものです。<7章>では、聖化の過程を歩む人々にとって非常に有益なことを記録しています。恵みによって罪から救われたにも関わらず、私たちの中にどれだけ罪に浸(ひた)ってしまう姿があるでしょうか。罪人から義人へ、しもべから息子へ、異邦の奴隷からローマ市民へと地位(ちい)は変わりましたが、古い習慣や行動は依然として存在しているのです。

「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」義と認められ、聖化の過程を歩む私たちの中に苦難があります。どうすることもできない罪の運命の下で傷ついた魂が奮闘(ふんとう)する世界があります。信仰の道を真剣に歩む人々にとって、このパウロの告白がどれほど重要なものであるか分かりません。この告白がなかったなら、救われた人は善良なふりをして、すべてが完璧であるかのように偽(いつわ)って生きなければならなかったでしょう。[ピリピ3 :12-14] 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求(ついきゅう)しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。13 兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸(の)ばし、14 キリスト・イエスにあって神が上に召(め)してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。実に美しい文章です。私たちは今、天国への途上(とじょう)を歩んでいます。つまり、私たちが行くべき道が残されているということです。私たちは「すでに」(already)と「まだ」(not yet)の間にいます。信仰とは、誠実(せいじつ)に、一歩一歩天国に向かって歩んでいくことです。救われた人々の中には激しい戦いがあります。しかし、パウロは私たちに、その困難(こんなん)の中でも喜ぶことのできる、バランスの取れた信仰の世界を教えてくれています。

[ローマ書 7:25] 私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。こうして、この私は、心では神の律法に仕(つか)え、肉では罪の律法に仕えているのです。

使徒は突然、喜びの賛美を歌います。罪によって死ぬしかなかった私を救ってくださった主イエス・キリストの恵みのゆえに、神様に感謝します!この恵みによって、私たちは息(いき)をすることができ、毎日を生きることができるのです。主は私たちの苦しみに背を向けられるのではなく、その苦しみの中で私たちと共にいてくださり、力と慰めを与えてくださいます。私たちがキリストと一つになる時、主の愛によって、私たちはこの戦いに圧倒的な勝利を収(おさ)めることができるのです。私たちがキリストと連合し、善なる戦いに勇敢(ゆうかん)に挑(いど)み、勝利の賛歌を歌う私たちとなることを願います。Ω

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