礼拝説教

肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です


2023年12月10日

本文: ローマ人への手紙8章5-13節

[ローマ8:5-6] 肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。6 肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。

ここで使われている「肉」とは、悪に染まり、古い習慣に浸っている私です。罪の思いと行いは、そのまま放置しておけば、どんどんと深刻になっていきます。そうして、最後には死に至ります。罪人は裁きを避けることはできません。それに対して、聖霊の中で生きる人々は、神様のことを思い、義の行いを実践しようとします。私たちが神様の聖なるアガペーの愛に沿って生きる時、命と平安が私たちに与えられるのです。

[ローマ8:7] なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従うことができないのです。

肉の思いは神に敵対するものです。なぜなら、肉の思いは罪的な思いだからです。罪を恋い慕い、罪を追い求める思いです。この罪に囚われている限り、私たちは神様の律法に聞き従うことができないのです。(肉の罪については、<ガラテヤ書5章16-21節>に詳しく書かれてありますので参照してください。)[ガラテヤ 5:17] 肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。肉(罪)と御霊は共存(きょうぞん)することができません。

[ローマ8:8-9] 肉のうちにある者は神を喜ばせることができません。9 しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。

「肉のうちにある者は神を喜ばせることができません。」肉に属する者(肉のうちにあるもの)は神様を喜ばせることができないと言いました。私たちは、神様の霊に属する者であるべきです。「神の御霊」とは何でしょうか?それは、聖霊です。聖霊にとどまる者、すなわち聖霊を受けた者は、肉に打ち勝つことができます。神の聖霊の力が私たちの中にとどまる時、私たちは自然に肉の欲望を捨て去るようになります。これが他のあらゆる宗教と異なるところです。私たちクリスチャンは、どうすれば古い習慣を捨て去り、悪に打ち勝つことができるのでしょうか。クリスチャンが究極的な勝利を収め、勝利の賛歌を歌うにはどうすればよいのでしょうか。それは上から来る神の聖霊の力を受けることです。[コロサイ 3:2] 上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。ですから、パウロはその書簡の中で、聖霊を受けるようにと勧めています。

「キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。」キリストの御霊を持っていなければ、キリストの人ではないと言いました。これは、「キリストの霊」を、「聖霊」に置き換えて読むことができます。どうすれば聖霊を受けることができるのでしょうか。聖霊は信じる者に与えられる主からの贈り物です。それは、主の御名を呼び求める全ての人に贈り物として与えてくださるものです。聖霊様は、私たちが心を開くと、まるで風のように私たちの中に入って来られます。<第一ヨハネの手紙5章6節>に「御霊は真理だからです」とあります。私たちが神様の御言葉を学び、黙想する時、私たちの中に聖霊が臨まれます。聖霊が私たちの中に入って来られることによって、私たちの中の闇が消えていきます。

[ローマ8:10-11] キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。11 イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生(い)かしてくださいます。

「キリストがあなたがたのうちにおられるなら」この言葉は「聖霊があなたがたのうちにおられるなら」と言い換えることもできます。「からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。」私たちのうちに聖霊がおられるなら、元々罪のゆえに死んでいた私たちの体に、聖霊が命を与えてくださるということです。「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が」これは神の御霊、すなわち聖霊です。聖霊が私たちのうちにおられるということを繰り返し語っています。そうであるなら、私たちに何が起こるのでしょうか。「あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。」私たちの体を生かしてくださるということです。パウロは、体の復活について話しています。(「体の復活」については、<ローマ書8章23節>でより詳しく見ることにします。)

イエス様が死者の中からよみがえられたことが「復活」であり、私たちの死ぬべきからだが生かされることも「復活」です。使徒パウロは今、復活の希望について教えています。イエス様も次のように言われました。[ヨハネ 11:25-26] イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか」。これは、イエス様の復活と永遠の命に関する教えです。今、使徒パウロは、この復活と永遠の命について語っています。「あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」使徒は、キリスト・イエスにある人々の復活の力について語っています。死の力に打ち勝たれたキリストと連合することで、私たちも死の力に打ち勝つことができるのです。私たちも、この使徒の信仰を持たなければなりません。

[ローマ8:12-13] ですから、兄弟たちよ、私たちには義務があります。肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。

「ですから」ここでまた、「ですから」という言葉が使われています。これはパウロ特有の表現法です。パウロが「ですから(therefore )」と言う時、先に取り上げた重要な話題の結論を明確にしようとしているのです。それゆえ、この二つの聖句(12-13節)は非常に重要です。「聖化とは何か」と問われるなら、この二つの聖句で簡潔(かんけつ)に説明することができます。ここまで使徒は教理的な内容を語ってきましたが、<12-13節>の御言葉は非常に実践的なメッセージです。私たちの実生活に関わる、極めて現実的な御言葉です。パウロの書簡を見ると、彼のメッセージは常(つね)に教理的なものと実践的なものの両方がバランスよく提示されています。彼の手紙は理論に終始(しゅうし)することなく、むしろ私たちが実践すべき倫理的な指針を与えてくれているのです。

「兄弟たちよ、私たちには義務があります。肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。」パウロは、私たちが負債(ふさい)を負っている者だと言いました。私たちが命を得たのは、神の御子が私たちの罪をご自身の血によって贖ってくださったからです。私たちは、イエス様に愛の借りがあるのです。この愛の負債があるからこそ、私たちはむやみやたらに生きることはできないのです。私たちにはその愛に対する責任があるのです。ですから、もはやこれ以上、私たちは肉に囚われて生きてはいけません。罪の法に従って生きてはいけません。再び罪の奴隷になってはならないのです。

「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬことになります。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きます。」人間は誰もが人生の最期を迎えます。そして、誰一人として神様の裁きを避(さ)けることはできません。[ヘブル 9:27] そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、全ての人が神様の御前に立たされ、裁きを受けることになります。もし私たちが肉に従って生きるなら、必ず裁きを受けるようになります。ここで使徒は語調を強めて語っています。「御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」死ねば生きます。私たちのあるべき信仰の姿とは、罪を徹底的に断絶し、清算することです。もし罪を犯したなら、ただちに立ち返るべきです。「悔い改め」はギリシャ語でメタノイア(μετάνοια、metanoia)です。これは罪の道を歩むことを止めて、そこから向きを変えて引き返すことです。罪に対する報酬(ほうしゅう)は死です。すぐに罪の芽(め)を切り捨ててください。私たちはからだの悪い行い(misdeed)を殺さなければなりません。聖化の過程は、敬虔(けいけん)と節制(せっせい)の訓練の過程です。不品行(ふひんこう)なからだの行いを殺すべきです。「死ねば生きる」という真理を忘れてはなりません。

「...御霊によって」私たちは「御霊によって」生きなければなりません。御霊は上から来ます。私たちが生きるための力は上から与えられるということを忘れないでください。私たち人間の力によってからだの行いを殺すことはできません。ただ聖霊の力によってのみ、それが可能なのです。ただキリストの恵みと愛の力によってのみ、その真理の光によってのみ、私たちは罪深い行いを殺すことができるのです。[Ⅰヨハネ 4:4] 子どもたち。あなたがたは神から出た者であり、彼らに勝ちました。あなたがたのうちにおられる方は、この世にいる者よりも偉大だからです。キリストは世に勝たれました。そして、世のいかなるものよりも偉大なお方です。私たちはキリストと連合することで、勝利する者たちとならなければなりません。

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