礼拝説教

私たちをキリストの愛から切り離すことはできない


2024年01月29日

*本文: ローマ人への手紙8章34-35節

[ローマ8:34] だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着(つ)き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。
「だれが、私たちを罪ありとするのですか。」 だれも自分を罪に定めることはできないという宣言です。どうしてそう断言できるのでしょうか。それはイエス・キリストのゆえに、です。イエス・キリストは十字架で死んだだけでなく、復活されました。そして、神様の右の座に着かれました。これが使徒信条の告白です。そこには「三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」 とあります。イエス様は天の御座に昇られ、神様の右の座に座(すわ)っておられます。
右側は最も尊い場所です。それは神様が最も愛しておられる人を座らせる場所であり、最も権威ある場所です。イエス様は生ける者と死にたる者とを裁かれるお方です。イエスは裁き主です。その裁き主なるお方が救ってくださったというのに、「だれがあなたを罪に定めることができるだろうか」ということです。これは喜びに満ちた宣言です。パウロは今、キリストの愛の物語について話しています。主は私たちを救うために命をお捨てになりました。私たちはそのようにして救われた、あまりにも尊い存在なのです。そのお方が私たちを再び罪に定めることがあると思いますか?答えは「いいえ」です。救われた者はこれを信じなければなりません。これを確かに信じるなら、私たちは揺れ動くことはありません。

キリストはどのようなお方でしょうか。私たちをとりなしてくださる仲介者であり、私たちを弁護(べんご)してくださる弁護者です。 「私たちのために、とりなしていてくださるのです。」前節(ぜんせつ)には、聖霊が私たちのためにとりなしてくださる、とありました。ここでは、キリストもまた、私たちのためにとりなしてくださるとあります。聖霊が私たちのとりなし手であるだけでなく、キリストもそうだと言うのです。そして、キリストは私たちをとりなしてくださると共に、私たちを弁護してくださるお方です。人間は限られた時間の中で生き、最後には必ず死を迎えます。[ヘブル 9:27] そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、死後に裁きがあります。これは実に恐ろしいものです。しかし、この裁きの座において、キリストが私たちの弁護者となってくださいます。それゆえ、私たちが救いを受けたという事実はとても尊いものなのです。

使徒の中に溢れていた恵みとはどのようなものでしょうか。それは「五重の祝福と七重の恵み」です。主は私たちが天国に辿(たど)り着くまでの旅路(たびじ)を、どんな時も守ってくださいます。これこそパウロが語る恵みです。パウロはこの驚くべき恵みを信じていました。「主がご自身の血の代価によって私たちを贖ってくださったことのゆえに、神様は最後まで私たちを支(ささ)え、守ってくださり、栄光の場へと導いてくださる。」使徒の中にあったこの確信が、私たちの確信となることを願います。

[ローマ8:35] だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難(くなん)ですか、苦悩(くのう)ですか、迫害(はくがい)ですか、飢(う)えですか、裸(はだか)ですか、危険(きけん)ですか、剣ですか。
「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。」これは、聖書の中で最も美しい使徒の告白でしょう。まるで一編(いっぺん)の美しい詩のようです。人が自らの深い信仰の世界を、このような美しい詩をもって告白できるなら、その人は本当に幸せな人でしょう。
使徒は、信仰の道を歩む時に私たちが直面(ちょくめん)する苦難について記しました。「苦難ですか」先に苦難が出てきます。ギリシャ語では「スリプシス(θλῖψις ; a pressing(押す), pressing together(押し合う), pressure(圧力))」ですが、これは脱穀場(だっこくじょう)で脱穀する際に起こる現象(げんしょう)を意味します。昔、農家(のうか)では、脱穀器具(だっこくきぐ)で穀物(こくもつ)を押して圧力(あつりょく)をかけることで脱穀しました。つまり、これは押す、押し出すという意味です。クリスチャンは脱穀場で穀物が押しつぶされるような苦難を経験します。これは終末論的な苦難を意味するものです。<マタイ24章>には、終わりの日に起こるすべての現象について詳細(しょうさい)に記録されています。使徒はここで、「ひどい苦難があったとしても、あるいは私たちがそのような困難(こんなん)な状況に直面したとしても、キリストの愛から私たちを引き離すことはできない」と言っているのです。この手紙を受け取ったローマの信徒たちは、周囲(しゅうい)からの迫害によって、追い立てられている状況にありました。だから彼らは使徒が話す言葉の深い意味を理解しながらこの手紙を読んだことでしょう。彼は、たとえ私たちが終わりの時代のような激しい苦難を経験したとしても、キリストの愛から引き離すことはできないと言っているのです。
今日、私たちはここまでの苦難を経験することはないかもしれません。特に宗教の自由が保証され、イエスの御名を自由に呼び求めることができる場所にいる人々にとっては、ここで使徒が語っていることがピンとこないかもしれません。私たちはあまりにも快適な環境(かんきょう)で主に仕えています。しかし、多くの場所で迫害され、今も暗い死の陰の下でうめき、迫害者から追(お)われ、追い立てられているクリスチャンがどれほどいることでしょう。そういった困難な状況下にある人々のために私たちは祈るべきですし、彼らが直面しているあらゆる苦難と迫害を心に留めて、彼らのためにできる限りのことをしなければなりません。

「苦悩(くのう)」 次は「苦悩」です。苦悩とは何でしょうか。ギリシ ャ語では「ステノコーリア(στενοχωρία ; stenochória ; narrowness of place、annarrow place)ですが、これは「狭い部屋」を意味します。つまり、身動(みうご)きが取れない状態です。これは、人の心が狭く、窮屈(きゅうくつ)になった時の、非常に息苦(いきぐる)しい状態を表(あらわ)しています。パウロはまず最初に終末論的な「苦難」を話し、そして、そこから生じてくる様々な苦しみを列挙(れっきょ)しました。苦難が最初にもたらすものは、信じる人々の「苦悩」です。言い換えるなら、それは「心の痛み」です。 「苦難」が時代がもたらす苦しみだとすれば、「苦悩」は心の痛みです。

「迫害ですか」その次に迫害が出て来ます。迫害とは、信仰の道を歩みながら敵対する人々や告発する人々から受ける苦しみです。「飢(う)えですか」飢えは空腹(くうふく)です。「裸(はだか)ですか」裸は貧困(ひんこん)です。「危険ですか」危険は恐怖(きょうふ)です。「剣ですか」剣は処刑(しょけい)です。恐怖の後に剣が続きます。 数多くの人々が引きずり出され、処刑されました。

以前、私たちは「七つの祝福」について見ました。神様の予知、予定、召(しょう)命(めい)、義認、栄光、そして私たちを絶えず弁護してくださり、私たちを守ってくださることです。パウロはこの計(はか)り知れない愛について、七つの愛の力について話しました。しかし、ここで彼はクリスチャンが直面する「七つの苦しみ」に言及(げんきゅう)しています。[ローマ 8:35] 苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢(う)えですか、裸(はだか)ですか、危険ですか、剣ですか。 その中で最も深刻(しんこく)なものが剣です。「剣」とはどういう意味でしょうか。「剣」は処刑を意味します。殺すことです。ローマの信徒たちが置かれていた状況は、このように非常に深刻で、困難を極める、恐ろしいものでした。使徒は、私たちが信仰の道を歩む中で、内外(うちそと)からもたらされる様々な困難について書いています。イエス様を信じることは決して容易なことではありません。イエス様は、私たちが狭い門から入らなければならないと言われました。[マタイ 7:13-14] 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。14 いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細(ほそ)いことでしょう。そして、それを見出(みいだ)す者はわずかです。罪深い現実の中で真理に従っていこうとするなら、その人生は必然的に「狭い門から入り」、「苦難を経験する」人生にならざるを得ません。

しかし、使徒はここで何を言おうとしているのでしょうか。いかなる艱難辛苦(かんなんしんく)も、私たちをキリストの愛から切り離すことはできないということです。神の御子が、私たちのような罪人のためにご自身の命を差し出され、私たちを救ってくださいました。それだけでなく、神様は私たちをあらかじめ知っておられ、私たちを召してくださり、私たちを予定し、義と認め、栄光を与えてくださるのです。イエス様は私たちを弁護し、私たちの保証人(ほしょうにん)となって、私たちのためにとりなしてくださっているのです。この驚くべき愛によって私が私となりました。ですから、どのような苦しみであっても、乗り越えられないものはありません。私たちに襲(おそ)いかかる困難がどんなに大きくても、私たちは圧倒的な勝利者となることができるのです。あらゆる逆境(ぎゃっきょう)を克服(こくふく)する力は何でしょうか。ここで使徒は「キリストの愛のゆえに」と言います。[Ⅰヨハネ 4:10] 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥(なだ)めのささげ物としての御子を遣(つか)わされました。ここに愛があるのです。/ [Ⅰコリント 13:12] …私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。主に完全に知られているように、私が主を完全に知ることになるのだと使徒は言います。ヘブル語の「知る」という言葉には「愛する」という意味もあります。あなたが誰かを完全に愛する時、あなたはその人を完全に知っているのです。使徒は今、キリストの愛のゆえに全てを克服(こくふく)することができたと告白しているのです。Ω

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