礼拝説教

私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります


2024年02月05日

*本文: ローマ人への手紙9章1-5節

<ローマ書9章>からは、新しい主題に移ります。<9章から11章>まで、パウロは神様の救済史(きゅうさいし)に現(あらわ)れる「選択(election)と遺棄(reprobation)」について説明します。選ばれた者と捨てられた者との関係、そしてイスラエルと新しいイスラエルの関係を説明しています。神学において、この主題は神義論(Theodicy)として扱われています。

私たちが<ローマ書9章>を読むにあたって、非常に重要な前提条件があります。それは<8章>からの流れを断(た)ち切ることなく、その連続線上(れんぞくせんじょう)にあるものとして読むべきだということです。そうしてこそ、私たちがその正確な意味を掴むことができます。この手紙が書かれた当初は、章と節に分けられていませんでした。読者の利便性のために、ずっと後になって章分けがなされたのです。では、<8章の最後の二節>をもう一度読んでみましょう。

[ローマ8:38-39]私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、39高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

パウロにはキリスト・イエスにある神の愛に対する感激があり、それがこれらの2つの節に滝のように溢れ流れています。ここで御使いについて言及されています。パリサイ人は御使いを偉大な存在と見なしていました。パリサイ人のパウロがここで御使いを挙げていることからも、彼が非常に重大な事柄を語っていることが分かります。<8章>の終わりの部分で、使徒は彼自身が持っていた愛の確信について語りました。すなわち、「天の御使いでさえ、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」と。決して断ち切られることのない、この愛を大前提として、使徒パウロは<9章>を始めています。

[ローマ9:1-3] 私はキリストにあって真実を語り、偽りを言いません。私の良心も、聖霊によって私に対し証ししていますが、2 私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。3私は、自分の兄弟たち、肉による自分の同胞(どうほう)のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています。

使徒は「私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています」と語りました。彼は先に「決して引き離すことはできません」と話したばかりです。しかし、ここに来て「引き離されて」と言うのです。これは非常に衝撃的な言葉です。<ローマ書>の代筆であったテルテオも、ローマ教会の読者もびっくりしたことでしょう。パウロは、<1節>で「私はキリストにあって真実を語り、偽りを言いません。私の良心も、聖霊によって私に対し証しして」いると言いました。「私が今から語る言葉は空言ではなく真実に他ならない」ということです。これは「私の良心の告白」であり、「聖霊様もそれが真実であることを証しておられる」ということです。

それでは、彼の良心の告白とは何でしょうか。「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがある」ということです。パウロの中に、本当に心苦しい世界があるということです。<8章>とは違い、<9章>に入ると、使徒の情熱的で揺れ動く心を目の当たりにします。彼にとって憂うべき事態があったようです。私たちが彼のその悲しみを理解できれば、<9章から16章>までを完全に理解することができるでしょう。パウロのこの心は「神様の心」そのものでした。それでは、使徒の大きな悲しみと絶え間ない とは何だったのでしょうか。彼が呪われてキリストから切り離されても良いと言ってまで願ったこととは何だったのでしょうか。「自分の兄弟たち、肉による自分の同胞のために」と言いました。パウロの願いは、「自分の兄弟たち、肉による自分の同胞(どうほう)」の救いです。パウロの願いは、イスラエルが救われることでした。彼らが救われていなかったことが、パウロにとって悲しみであり苦痛だったのです。ですから、たとえ自分が呪われてキリストから引き離されるとしても、イスラエルが救われるのであれば、私は何事も厭(いと)わない、ということです。それほどパウロは同胞の民を愛していたのです。

「キリストから引き離されて」この言葉の中に、使徒の深い愛を見ることができます。使徒の中にあまりにも立派な世界があります。決して引き離されることのないキリストの愛から引き離されてでも、使徒が掴(つか)んで行くべき世界があったということです。<ヨハネの福音書19章>を見ると、イエス様が十字架上の言い知れない苦痛の中で息(いき)を引き取られる場面が描かれています。主は死の直前に、ご自身の母親であるマリアを、愛弟子ヨハネに託されました。母親に対するイエス様の深い愛が表された場面です。「しかし、イエスはそう言っている人に答えて言われた。『わたしの母とはだれでしょうか。また、わたしの兄弟たちとはだれでしょうか」(マタイ12:48)。より大きな御心のために、ご自分の持てる全てをお捨てになった主でしたが、その中にはあまりにも深い母への愛、すなわち、「骨肉の親戚〈直訳〉」への愛がありました。今、使徒パウロの中にもこのような愛があるのです。それゆえ、その中に深い悲しみと苦痛があるのです。

「当然、捨てて行かなければならない」という冷酷さではありません。捨てられた兄弟のことを考え憂慮(ゆうりょ)する、この深い心に注目してください。「たとえキリストから引き離されても」と言う程に兄弟を愛する心を持つ人は、絶対に主の愛から引き離されることはないでしょう。その心を主がご存じではないでしょうか。私たちが、パウロのこの深い愛の世界を理解するとき、彼の説く「選択(election)と遺棄(reprobation)」の論旨を完全に理解することができるでしょう。

[ローマ9:4a] 彼らはイスラエル人です。…

パウロが言う「自分の兄弟たち、肉による自分の同胞(骨肉の親戚〈韓訳〉)」とは誰でしょうか。 <4節>に「彼らはイスラエル人です」とあります。今パウロは「イスラエルの歴史」を話しているのです。イスラエルの歴史を見る時、新しいイスラエルが探されるようになり、元のイスラエルは遺棄されました。選択された者がいて、それゆえに遺棄された者がいました。<9章>では、これが個人の救いの歴史を超越した神様の救いの歴史において起こった出来事であると説明されています。ここで私たちは、遺棄されたイスラエルに心を痛め、何としてでも彼らを救いたいと願ったパウロの心を見るようになります。これは、選ばれた人々がどのような姿勢をもって自らの人生を生きるべきかを私たちに示しています。選ばれた人々は、遺棄された人々を必ず覚えなければなりません。そして、自分が呪われてでも彼らを救おうとする、パウロのような姿勢で生きなければなりません。<使徒の働き>を見ると、パウロはどの都市に行っても、まず最初にユダヤ人に福音を伝えようとしたことが分かります。ユダヤ人は彼をひどく憎み、厳しく迫害しました。人々から締(し)め出されて、新たな宣教地に追いやられる時でさえ、まずユダヤ人に福音を伝えんとする彼の姿勢は変わりませんでした。時にはユダヤ人たちから石打ちに遭い、瀕死の状況に陥ることもありましたが、彼らの憎しみが大きければ大きいほど、むしろ、同胞である彼らに対するより強く、深い愛が示されたのです。まずは「イスラエルの失われた羊」のもとに行こうとする、「ユダヤ人第一宣教主義」を徹底して貫いたのです。

[ローマ9:4b-5] …子とされることも、栄光も、契約も、律法の授与も、礼拝も、約束も彼らのものです。5 父祖たちも彼らのものです。キリストも、肉によれば彼らから出ました。キリストは万物の上にあり、とこしえにほむべき神です。アーメン。

イスラエルがどのような人々であったかを説明します。彼らは子とされること、神様の栄光、契約、律法、礼拝、そして約束を持っていました。信仰の先祖たちはユダヤ人から出ましたし、キリストもまた彼らから出ました。キリスト教はユダヤ教から来ました。私たちがよく使う「アーメン」もユダヤ教のシナゴーグ礼拝から来ました。「ハレルヤ」も同様です。礼拝の時に詩篇を読むこと、そして礼拝順序の基本的なものは全てユダヤ教がルーツとなっています。ユダヤ教の中に、すなわち旧約聖書の中に、どれほど素晴らしいものが多いでしょうか。もし私たちがイスラエルを捨てるなら、それは旧約聖書を捨てることを意味します。したがって、絶対に捨てることはできません。ユダヤ教には神様の約束があり、その約束の成就(じょうじゅ)としてイエス・キリストが来られました。すでに神様の約束がありました。それゆえ彼らはその成就を受け入れるだけで良かったのです。どれほど尊い民でしょうか。約束を有する者だけが、その成就の真の意味と喜びを知ることができます。したがって、彼らを敵のように見なして、切り離そうとするべきではありません。

私たちは、パウロにあったイスラエルへの深い愛を見ています。敵を愛された驚くべきキリストの愛の世界を、使徒パウロは再現しているのです。彼は偉大なるその愛の歴史を、再び書き進めようとしています。言い換えれば、彼は大きな愛の輪を描こうとしているのです。彼は生涯を通して、より一層主に近づき、主の愛の世界をより深く知るようになりました。そして、それを自らの内にしまっておくことなく、ローマの信徒たちにも伝えようとしました。この使徒の心を持って生きるのであれば、いかなる困難にあおうとも、私たちは団結と一致の世界をもたらすことができます。神様の歴史において遺棄された人々、すなわちそのことのゆえに痛みの中にある人々を全て抱いていくことができます。神様はそのような心を持つ人々に歴史を委ねることができるのです。Ω

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