礼拝説教

選択と遺棄


2024年02月20日

*本文: ローマ人への手紙9章10-13節

10それだけではありません。一人の人、すなわち私たちの父イサクによって身ごもったリベカの場合もそうです。11 その子どもたちがまだ生まれもせず、善も悪も行わないうちに、選びによる神のご計画が、12 行いによるのではなく、召してくださる方によって進められるために、「兄が弟に仕える」と彼女に告げられました。13 「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書かれているとおりです。

<10節>から、パウロは2番目の例として「ヤコブとエサウ」の物語を語っています。使徒がここで本当に証言したかったこととは何でしょうか。それは「恵み」です。人が生まれる前の段階で、何の功績もない時に、神様の「一方的な恵み」が与えられました。パウロはそれについて話したいと思っています。「あなたがたが選ばれたのはいかなる理由によったものなのか」。使徒はこの鋭(するど)い質問を提起(ていき)します。読者に向かって、「新しく選ばれた者たちよ、あなたがたがどのようにしてこの祝福の立場に立つことができたのか」と尋ねます。そしてパウロは答えます「それがまさに恵みだ」と。私たちのいかなる功績や功労(こうろう)によるものでもなく、恵みによるものであると言いたいのです。

では、この驚くべき恵みを受けた人々は、どのように生きるべきでしょうか。パウロはイスラエルと新しいイスラエルの関係に言及することで何を伝えたかったのでしょうか。選ばれた人々は、「私が受けた祝福は、イスラエルのためのもの」と考えて生きるべきです。「私たちに与えられた驚くべき恵みは、すべての兄弟姉妹のためのものです」と考えて生きるべきです。<9章から11章>まで、パウロは私たちをイスラエルと新しいイスラエルが一つになる世界に導きます。

[ローマ9:12-13] 行いによるのではなく、召してくださる方によって進められるために、「兄が弟に仕える」と彼女に告げられました。13「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書かれているとおりです。

これらは非常によく知られている聖句です。特に16世紀の宗教改革(かいかく)者ジャン・カルヴァン(John Calvin)の予定説を説明する際の根拠として用いられました。カルヴァンは「二重(にじゅう)予定(Double Predestination)」を主張しました。選択(election)と遺棄(reprobation)がすでに決定されているとの主張を<13節>にある「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」という御言葉をもって説明しました。長老派教会は、<ローマ9章>に基づいたカルヴァンの教義の上に立っています。しかし、<9章>の教えを誤解すると、深刻な問題が生じてしまいます。前後の文脈(ぶんみゃく)を無視して、この部分だけを取り出して読んでしまうなら、すなわち「神様の遺棄は、神様の選択と同様すでに決定されている」のだという、単純な論理で「選択と遺棄」を捉(とら)えるなら、神様に対する深刻な誤解を招(まね)きかねません。

ウィリアム・ケアリーという宣教師がある宣教地を訪(おとず)れた際、恐ろしい光景を目の当たりにしました。亡くなった夫の葬儀(そうぎ)で、夫人も生きたまま一緒に火葬(かそう)されていたのです。このような悪習の背景には、妻は夫のために仕える運命にあり、夫の所有物だという認識がありました。その社会は運命の鎖(くさり)によって雁字搦(がんじがら)めにされていました。これがどれほどもどかしく、深刻な問題でしょうか。ところが、<ローマ書9章>を間違って理解すれば、この御言葉は、それと同じ「運命論」に映(うつ)りかねません。カルヴァンの予定論である「二重予定」の教理をどれほど多くの人々が誤解し、それによって神様を憎み、神様から離れ去ったかわかりません。しかし、<ローマ書9章>で使徒パウロが話そうとすることは決して運命論ではありません。カルヴァンが予定説を通して伝えようとしたことも、運命論ではなかったのです(8章を参照)。

私たちの人生には良いことだけが起こるのではなく、そうでないこともたくさん起こります。一部の人々は、悲惨な運命や困難な時期を経験する中で、神様が自分をそのような悲惨な運命に定めているのだと考えます。しかし、先ほど私たちがサウル王の失脚(しっきゃく)の出来事を通して知るようになった真実は何だったでしょうか。それは、神様が私たちを呪いと悲惨の人生に運命づけたがゆえに、私たちが辛(つら)く苦しいのではない、ということです。それは他でもなく、私たちが神様を捨てたからなのです。ですから、私たちは根拠のない運命論にとらわれて、私たちの人生を惨(みじ)めに生きるべきではありません。

では、パウロが語る「選択の予定」とは何でしょうか。彼は、神様が私たちを選び、私たちの人生の至る所(ところ)に介入(かいにゅう)され、内在(ないざい)されるのだと確信していました。神様の驚くべき深い愛について彼には絶対的な確信がありました。したがって、パウロの選択の予定は、「神の主権的な恵みと愛」と「神の絶対予定」を意味しました。神の絶対的な愛は、神の絶対予定から切り離すことはできません。この点で、私たちは神様の予定を正しく理解し、絶対的な予定を信じる者たちとなる必要があります。パウロ同様カルヴァンも、私たちが神様の驚くべき恵みと計(はか)り知れない愛を実現しなければならず、それらを失うべきではないことを証言しようとしていました。

[エサウとヤコブ]
ヤコブとエサウに話を戻しましょう。聖書は運命論を主張していません。私たちはこれを知らなければなりません。事実、エサウとヤコブの運命を注意深く見る時、驚くべき事実が分かります。すなわち、彼らの運命が変わったのです。彼らの誕生の観点から言えば、エサウはヤコブよりも遥(はる)かに有利な立場にありました。エサウは、父親のすべての権威を継承(けいしょう)できる長子の権利を持っていました。家父長制(かふちょうせい)社会では、父親の権威は想像を遥かに超えるほど大きなものであり、その権威は長子の権利を持つ息子に受け継(つ)がれることになっていました。エサウはもともとその権利の所有者でした。しかし、結果的にエサウとヤコブの運命は変わりました。
彼らの運命を変えたものとは何だったのでしょうか。それはたった一杯のレンズ豆(まめ)の煮物(にもの)でした。

[創世記25:33-34] ヤコブが「今すぐ、私に誓ってください」と言ったので、エサウはヤコブに誓(ちか)った。こうして彼は、自分の長子の権利をヤコブに売った。34 ヤコブがエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を侮(あなど)った。[ヘブライ12:16]また、だれも、一杯の食物と引き替(か)えに自分の長子の権利を売ったエサウのように、淫(みだ)らな者、俗悪(ぞくあく)な者にならないようにしなさい。

エサウは自らの祝福を売りました。言い換えれば、彼はそれを捨てたのです。「エサウは長子の権利を侮(あなど)った」と書かれています。彼は空腹(くうふく)のゆえに祝福を売ってしまったのです。一方、ヤコブは空腹にも関わらず、レンズ豆の煮物を兄(あに)に与えました。これこそヤコブがイスラエルになった理由です。パウロは、「イスラエルがすべて真のイスラエルではない」と言いました。その通りです。イスラエルの中には、レンズ豆の煮物欲しさに神様の祝福を売る者もいれば、どれほど空腹だとしても、レンズ豆の煮物を売って信仰の歴史を自らの歴史に変える者もいます。誰が真のイスラエルと呼ぶことができるでしょうか。神様の祝福を大切に掴(つか)んで生きる者こそが真のイスラエルではないでしょうか。エサウの祝福は奪(うば)われました。今、イサクの神様がヤコブの神様になりました。これは実に恐ろしい世界です。

私たちが<9章>を学びながら、予定説を運命論と履(は)き違えてはなりません。むしろ、聖書は全ての物事(ものごと)が既(すで)に決定済(ず)みであるという運命論を否定します。それは、祝福を受けた者が、それを失い、他の誰かに奪われてしまう可能性があることを意味します。その反対に、祝福を受ける立場になかった人が祝福されることもあるのです。では、祝福された人が持つべき姿勢とは何でしょうか。その祝福を尊く思い、しっかりと掴んで、常(つね)に謙虚(けんきょ)に生きていくことです。そのような人こそが真の約束の子です。

[マラキ1章、エドムに対する預言]
<ローマ書9章13節>は「書かれている」という言葉で始められています。これは創世記に記録された御言葉ではなく、<マラキ1章2-3節>に記(しる)された御言葉です。パウロがそれを引用したものです。 『[マラキ1:2-3]「わたしはあなたがたを愛している。──主は言われる──しかし、あなたがたは言う。『どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか』と。エサウはヤコブの兄(あに)ではなかったか。──主のことば──しかし、わたしはヤコブを愛した。わたしはエサウを憎み、彼の山を荒(あ)れ果てた地とし、彼の相続地(そうぞくち)を荒野(あらの)のジャッカルのものとした。<マラキ1章>は私たちが読んでおくべき非常に重要な預言です。預言は未来に関するものです。預言者マラキの預言は、「祝福を受けた者と受けなかった者」について語ることから始まります。祝福を受けなかった者とはエドムを指します。エドムとは誰でしょうか。エドムの祖先(そせん)はエサウであり、イスラエルの祖先はヤコブです。これらの2人の祖先の系図(けいず)から出てきた子孫はどうなったでしょうか。エサウの子孫は後にヤコブの子孫に朝貢(ちょうこう)を捧げることになります。エドム人は礼物(れいもつ)を用意してイスラエルに持参(じさん)する人々になり、最終的には滅(ほろ)ぼされました。マラキはこのエドムの運命について話します。「エサウの子孫であるエドム人よ、あなたがたは祝福を奪われたため、絶滅(ぜつめつ)するであろう」。絶滅する運命がどれほど恐ろしく悲惨なものでしょうか。一方で、彼は次のように預言しています。「ヤコブの子孫、イスラエル人よ、あなたがたは神様に祝福されている者たちなので、あなたがたの子孫、あなたがたの民は永遠に続いていくであろう」。この二つの民族の運命が変わりました。神様の歴史は非常に厳粛(げんしゅく)で恐ろしいものです。

パウロは私たちに何を言いたかったのでしょうか。それは「あなたがたは神様からの祝福の価値、その尊さを知っているのか。あなたはそれを必ず知っておくべきだ」ということです。神様の祝福は、一人の人間を超えて子々孫々(ししそんそん)にまで及(およ)ぶ驚くべき祝福なのです。ヤコブの祝福がイスラエルの祝福となったように、それは世代を超えて受け継がれていくのです。加(くわ)えて、パウロは何を言おうとしたのでしょうか。「誰もあなたがたが受けた祝福を損(そこ)なわせたり、無効にしたりすることはできない」ということです。神様の祝福には正当な理由があります。ヤコブとその子孫が受けた祝福が正当であるのと同じです。ですから、誰も「どうしてあなたがその祝福を受けるようになったのか」と疑問を呈(てい)することはできません。神様の選択には、「正当性」があり、それに対して誰も反問(はんもん)することはできません。私たちは、私たちに与えられた驚くべき救いの恵みをしっかりと掴んで生きる者たちとなるべきです。

[選択と遺棄]
ここで私たちは、神様の歴史には「選択と遺棄」があることを学ぶようになります。恵みを受ける者がいれば、恵みを受けることのできない者がいました。言い換えれば、その人は見捨てられたのです。イエス様の御言葉にも、次のようなたとえ話があります。[マタイ24:40-42]そのとき、男が二人畑(ばたけ)にいると一人は取られ、一人は残されます。41 女が二人臼(うす)をひいていると一人は取られ、一人は残されます。42 ですから、目を覚ましていなさい。あなたがたの主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らないのですから。二人の男が野原(のはら)にいると書かれています。ひとりは取られ、もうひとりは残されます。臼(うす)をひく二人の女声も同様です。1人は取られ、もう1人は残されます。

「選択と遺棄」をよく見ると、二つのケースがあります。最初は「十人の乙女のたとえ」です。<マタイ25章>に記(しる)されているこのたとえにおいて、五人の賢明(けんめい)な乙女は、ともしび(灯)と一緒に油を入れた入れ物を持っていましたが、残りの五人は愚かで、ともしびはありましたが油を持って来ていませんでした(マタイ25:1-3)。最初の五人は起きていて、他の五人は眠っていました(マタイ25:13)。このたとえでは、眠っていた五人は、油を準備することができなかったために捨てられました。準備ができなかったことで捨てられたのですから、責任(せきにん)の所在ははっきりしています。したがって、捨てられた者はその結果について異(い)を唱(とな)えることも、反論することもできません。

しかし、これと全く異なる第二のケースがあります。 [ローマ9:1:11‐12a]「その子どもたちがまだ生まれもせず、善も悪も行わないうちに、選びによる神のご計画が、12 行いによるのではなく、召してくださる方によって進められるために。。。」

彼らが生まれる前に、神様は一方(いっぽう)を選び、もう一方を捨てました。この第二のケースを理解することは容易ではありません。ここに「差別的とも見える驚くべき恩寵(おんちょう)」があります。「信仰の世界」は完全に異なる次元(じげん)にあり、私たち人間の「理性の世界」を超越(ちょうえつ)しています。これが「選択と遺棄」というテーマの最も難解な部分です。Ω

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