礼拝説教

資格のない者に注がれる神様の恵み


2024年02月27日

*本文: ローマ人への手紙9章15-32節

[ローマ9:15-16] 神はモーセに言われました。「わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ。」16ですから、これは人の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。

これは神様の祝福と選択における絶対的な主権性を言っています。パウロは、私たちの行いや功労によってではなく、ただ神様の一方的な恵みによってのみ救われることを強調しています

[ローマ9:17-18] 聖書はファラオにこう言っています。「このことのために、わたしはあなたを立てておいた。わたしの力をあなたに示すため、そうして、わたしの名を全地に知らしめるためである。」18ですから、神は人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままに頑なにされるのです。

これもまた非常に難解な節です。これは神義論(しんぎろん)に関連した教えです。この聖句は、神義論的な視点から見れば、サタンとそのすべての悪が神様の主権と摂理の内にあることを語っています。言い換えれば、神様はご自身の主権と摂理の力の下で悪を変えることさえあるということです。<18節>はファラオについての話です。<出エジプト記>では、神様が彼の心をかたくなにしたと言われています。「[出エジプト記4:21]主はモーセに言われた。「あなたがエジプトに帰ったら、わたしがあなたの手に授けたすべての不思議を心に留め、それをファラオの前で行え。しかし、わたしが彼の心を頑なにするので、彼は民を去らせない。」イスラエルの民が紅海を渡ろうとした最後の瞬間、ファラオの心は最もかたくなになりました。それで、何百というエジプトの戦車が彼らを追跡しました。絶望的な状況の中で、モーセは杖を上げて海を分け、イスラエルの民が乾(かわ)いた地面を歩くことができるようにしました。イスラエルの民を追ってエジプトの全軍勢も海に入っていきましたが、彼らは水に覆われ、誰一人として生き残った者はいませんでした。これこそ、神様がファラオの心をかたくなにされた理由です。悪がその極みに達すると破滅します。そうして、神様の裁きの力が現されるようになります。どんな悪も、そのすべては神様の主権と摂理の中にあるのです。

[ローマ9:19-20] すると、あなたは私にこう言うでしょう。「それではなぜ、神はなおも人を責(せ)められるのですか。だれが神の意図に逆らえるのですか。」20人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。

神様の選択を誤解している人々には根拠のない怒りがあります。彼らは「なぜ神様は彼を選び、私を捨てたのか」と尋ねます。しかし、私たちが覚えておくべきことは、人間は本来死ぬ運命にあったということです。私たちは死に定められていました。パウロは尋ねます、「悲惨に生きていた人を救うことが間違っているだろうか。罪の奴隷として生きるしかなかった人々を救うのが間違ったことだろうか。「神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。」誰も言い返すことはできません。パウロは、私たちには神様に抗議する資格がないと言います。

[ローマ9:21-23] 陶器師(とうきし)は同じ土(つち)のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利を持っていないのでしょうか。22それでいて、もし神が、御怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられたのに、滅ぼされるはずの怒りの器を、豊かな寛容をもって耐え忍(しの)ばれたとすれば、どうですか。23しかもそれが、栄光のためにあらかじめ備えられたあわれみの器に対して、ご自分の豊かな栄光を知らせるためであったとすれば、どうですか。

すべてのことが神様の全権に属しています。裁きも神様の権限であるのに、まして憐れみにおいて、なぜ神様に権限がないと言えるでしょうか。憐れみ深く、忍耐強く、豊かな栄光をお与えになるすべてが、神様の権限ではありませんか。人間がどのようにして神様の権限の行使に口を挟んだり、抗議することができるでしょうか。私たちにはいかなる権利、資格もないのです。

[ローマ9:24-26] このあわれみの器として、神は私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。25それは、ホセアの書でも神が言っておられるとおりです。「わたしは、わたしの民でない者をわたしの民と呼び、愛されない者を愛される者と呼ぶ。26あなたがたはわたしの民ではない、と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」

パウロはここで<ホセア書>を引用しています。イエス様が最も愛読され、深く黙想されたのがこのホセア書でした。この<24,25節>は 、それぞれ<ホセア書2章23節と1章10節>からの引用です 。[ホセア書 2:23] わたしは、わたしのために地に彼女を蒔き、あわれまれない者をあわれむ。わたしは、わたしの民ではない者に『あなたはわたしの民』と言い、彼は『あなたは私の神』と応える。」/[ホセア書 1:10] イスラエルの子らの数は、量ることも数えることもできない海の砂(すな)のようになる。「あなたがたはわたしの民ではない」と言われたその場所で、彼らは「生ける神の子ら」と言われる。 「『愛されない者』を愛し、『わたしの民でない者』を、『あなたはわたしの民』と言われる」神様の恵みを私たちが知らなければなりません。資格のない者に注がれるこの恵みがまさに神様の恵みです。

[ローマ9:27-29] イザヤはイスラエルについてこう叫んでいます。「たとえ、イスラエルの子らの数が海の砂のようであっても、残りの者だけが救われる。28主が、語られたことを完全に、かつ速やかに、地の上で行おうとしておられる。」29また、イザヤがあらかじめ告げたとおりです。「もしも、万軍の主が、私たちに子孫を残されなかったなら、私たちもソドムのようになり、ゴモラと同じようになっていたであろう。」

私たちが、救われるに値(あたい)するから救われたのでしょうか。そうではありません。この恵みを忘れてしまう時、深刻な問題が生じてしまいます。イスラエルの最大の問題は、この恵みを知らなかったということです。自分たちは救われて当然であり、選ばれるに値する者たちだという霊的な高慢に満ちていました。

イスラエルの民はどのような人々でしたか。預言者ホセアが言ったように、彼らは愛されるに値しない人々でした。彼らには神の民となる資格はありませんでしたが、神様は彼らを「私の民」と呼ばれました。彼らは愛されるに値しませんでしたが、愛してくださったのです。召されるに値しない者たちを呼び、彼らを神の民とされたのです。しかし、その恵みを忘れてしまう時、もはや神の民であり続けることはできません。たとえ神様の恵みによって選ばれたとしても、最終的には残された者にならず、神の国の遺業を受け継ぐことはできません。これこそ選民であるイスラエルの民が逃(のが)した部分でした。

[ローマ9:30-32] それでは、どのように言うべきでしょうか。義を追い求めなかった異邦人が義を、すなわち、信仰による義を得ました。31しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めていたのに、その律法に到達しませんでした。32なぜでしょうか。信仰によってではなく、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。

<9章30節から10章21節>までは一連のメッセージとなっているため、一緒に見る方がよいでしょう。そこには、イスラエルの民、すなわち選ばれた神の民であり、アブラハムの子孫である彼らがどこで道を踏み外(はず)し、どのような罪を犯したかが記(しる)されています。<32節>で、使徒は「なぜでしょうか」と尋ねます。イスラエルはどのようにしてつまずいたのでしょうか。私たちがこの世界を深く理解する必要があります。そして、彼は同じ節で答えます。「信仰によってではなく、行いによるかのように追い求めたからです。」パウロは彼らのつまずきの理由に言及しました。それは「行いによるかのように追い求めた」(行いに頼った〈韓訳〉)からだと。イスラエルが遺棄された理由について、パウロは何と言っているでしょうか。彼らは自分たちの行いによって、自らの義によって救いを獲得しようとしたのです。彼らは神様の御前においてなされた自らの功労や義によって罪から解放されると考えました。決してそうではありません!それは絶対に不可能なのです。

[そのとおりです、と言う「信仰」]
一方、異邦人は信仰に頼(たよ)ることによって救われました。<マタイの福音書15章21-28節>には、一人のカナンの女性の信仰について記録されています。イエス様がご自分の民から排斥され、ツロとシドンという異邦の地に退かれた時、一人のカナン人の女性が主のもとにやって来ました。「すると見よ。その地方のカナン人の女が出て来て、『主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます』と言って叫び続けた」(マタイ 15:22)。女性は涙を流して嘆願しましたが、イエス様はとても冷たくお答えになりました。「すると、イエスは答えられた。『子どもたちのパンを取り上げて、小犬(こいぬ)に投げてやるのは良くないことです」(マタイ 15:26)。そのような侮辱的な言葉が、愛の主の口から語られたのです。それは「あなたは犬ではないのか?あなたは異邦人ではないのか?」ということです。そしてこう仰いました。「息子ではない者、本来愛を受けることができない者たちを愛することはできない。準備された者たちを差し置いて、あなたに愛を施(ほどこ)すことはできない」のだと。女性は何と答えたでしょうか。「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます」(15:27)。異邦人の中にある謙遜な心を見てください。女性は「主よ」と言いました。この言葉は何を意味しているでしょうか。自分は神様に愛されることができない犬のようであるということです。神様の聖なる民に与えられるはずのパンを食べることができない者であり、このように扱われるのは正しいことだと彼女は言ったのです。 「はい、主よ。私は資格のない罪人です。」選民の中には見出すことのできなかった心です。彼女はさらにもう一段階進みます。「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」その言葉は本当に主を驚かせました。イエス様は深く感動し、こうおっしゃいました 。「そのとき、イエスは彼女に答えられた。『女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。』彼女の娘は、すぐに癒やされた」(15:28)。私たちがここで 「救われる場所、驚くべき恵みが与えられる場所」に目を留めなければなりません。彼らが異邦人であったとしても、信仰の世界を悟った人々に救いの道は開かれました。神様は彼らを選びました。救いと選択の問題に関して、神様が選民を捨てて、異邦人を選んだと単純に考えるべきではありません。神様が異邦人を選ばれたわけではありません。信仰の世界を悟った異邦人だけが救われ、選ばれました。

「つまずきの石につまずいたのです。」これは、<イザヤ書28章16節>からの引用です。[イザヤ28:16]それゆえ、神である主はこう言われる。「見よ、わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊い要石。これに信頼する者は慌てふためくことがない。パウロは、イスラエルについて何と言っているでしょうか。イスラエルは、信仰から出た義がなかったので、彼らが石につまずいたと言っています。裁かれたということです。私たちがこの世界を深く黙想することを願います。そうして、行いに頼らず、信仰に頼って、神様が尊く用いられる神様の民、偉大な信仰の歴史を受け継いで行く、この時代の神様の選民になることを願います。Ω

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