礼拝説教

キリストから恵みと平安が...


2023年05月16日

*日時:2023年5月14日、主日禮拜
*場所:福岡アガペ長老教会
*說敎:張サムエル 牧師
*本文:ローマ書 1章1-7

[ローマ書 1:1] キリスト・イエスのしもべ、神の福音のために選び出され、使徒として召(め)されたパウロから。

「使徒として召(め)された」 パウロはまた、自らを「使徒」だと言いました。使徒は非常に大きな称号(しょうごう)です。使徒という言葉は、ギリシャ語のアポストロス(Apostolos)から来ています。アポストロスはローマ時代の軍隊(ぐんたい)で使われる用語(ようご)だった。西洋(せいよう)の軍艦(ぐんかん)の集(しゅう)合体(ごうたい)である艦隊(かんたい)(戦略(せんりゃく)および作戦(さくせん)任務(にんむ)を遂行(すいこう)する海軍(かいぐん)連合(れんごう)部隊(ぶたい)の軍艦)やその司令官(しれいかん)を意味する言葉でした。しかし、この名前がイエス様の復活後に弟子たちを指(さ)すものとなったのです。
イエス様の12弟子がアポストロスでした。しかし広義(こうぎ)では、パウロとバルナバ、イエスの兄弟ヤコブのような福音の伝播者(でんぱしゃ)たちがみな使徒だと言うことができます。大使(たいし)が一国の王や大統領の信任状(しんにんじょう)を委(ゆだ)ねられ、全権(ぜんけん)を持って他国(たこく)に派遣(はけん)されるように、アポストロスとは、主から全権を受けて派遣(はけん)された大使(Ambassador)です。アポストロスという言葉のその意味が、ヨハネの福音書によく表(あらわ)されています。「あなたがわたしを世に遣(つか)わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました」(ヨハネ 17:18)。まずは、イエス様ご自身が、神様の全権を委(ゆだ)ねられ、この地(ち)に遣(つか)わされた偉大なる大使でした。そして、アポストロスは単(たん)に十二使徒だけを指(さ)すのではなく、そのほかの福音伝播のために召(め)されたすべての人々を含(ふく)む称号(しょうごう)でもあります。使徒パウロの中にはこのような二つの自己理解と自己解釈(かいしゃく)がありました。第一はイエスキリストのしもべとなった私であり、第二はイエスキリストの使徒となった私です。

「使徒として召され神の福音のために選び出され」パウロは、自分の人生は、召(め)された人生であり、選ばれた人生であることを告白します。パウロは、自分が召され、選び出さたのだと、言葉を並(なら)べて強調(きょうちょう)しています。これが使徒の中にあった確(たし)かな自己(じこ)確信(かくしん)でした。「死の陰(かげ)の下にいた私、死んで当然の罪人であった私の罪を、主は問(と)い詰(つ)めることなく、赦してくださった。私を救ってくださり、愛してくださった」。これがパウロの告白です。パウロは、キリストの敵でした(使徒 9:4)。「主が私のような者を愛してくださり、使徒として立ててくださった。それゆえ、私が主を選んだのではなく、主がわたしを選んでくださったのだ」ということです。ヨハネの福音書15章を見ると、「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び」(ヨハネ 15:16)とあります。私が私となったのは、私の選択(せんたく)によるものではなく、私の功労(こうろう)によるものでもありません。

「神の福音のために選び出され」パウロは何のために選び出されたと言っているでしょうか。「神の福音のために」です。今、ローマ書の導入(どうにゅう)部分において、福音という言葉が使われています。福音とは何でしょうか。ラテン語では「エヴァンゲリウム(evangelium)」、ギリシャ語では「エヴァンゲリオン(euangelion )」です。この単語の語源(ごげん)を見ると、二つの単語の組み合わせになっています。接頭辞(せっとうじ)「eu-」は、「良い(good)」と言う意味であり、「angelos」あるいは「angelion」は「知らせ(news)」、メッセージという意味です。つまり、福音とは「Good News、良い知らせ、良いメッセージ」を意味します。福音がなぜ良い知らせなのでしょうか。それは「戦争における勝利の知らせ」だからです。キリストがすべての罪悪の勢力(せいりょく)に打(う)ち勝(が)ち、相手(あいて)を完敗(かんぱい)させたという勝利の知らせです。古代(こだい)ギリシャでは市街戦(しがいせん)での勝利を伝(つた)えるために、一人の勇者(ゆうしゃ)が一生懸命走ってその吉報(きっぽう)を届(とど)けました。それがまさにオリンピックの最後を飾(かざ)るマラソンの由来(ゆらい)です。「キリストにあって、すべての罪が撤廃(てっぱい)され、罪の鎖(くさり)が断(た)ち切(き)られるようになった。私たちに新しい人生と真の自由をもたらしてくれるこの勝利の知らせ、この福音のために召された私である」。これこそが使徒パウロの告白でした。皆さん一人ひとりを、主が愛によって呼ばれました。なぜ呼ばれたのでしょうか。私たちが、使徒のように福音のために選び分けられたのだということを忘れることなく、その尊(とうと)い召(しょう)命(めい)の意味を掴(つか)んで生きることを願います。

[ローマ書 1:2] この福音は、神がご自分の預言者たちを通して、聖書にあらかじめ約束されたもので、

この福音は、単(たん)なる偶然の産物(さんぶつ)ではなく、日常的(にちじょうてき)なものでもなく、突然(とつぜん)真空(しんくう)状態(じょうたい)から落ちてきたものでもないという事です。私たちに与(あた)えられた福音というのは、神の預言者によって約束されていたものであると言います。あらかじめ預言者を通して、主の日として、その一日が来ると約束されていたのです。これは約束の成就(じょうじゅ)です。ですから、そこには準備がありました。この準備という側面(そくめん)から見る時に、思想(しそう)も政治(せいじ)も、ローマに道を一つ整備(せいび)することすらも、全てキリストを迎えるための準備だったと言えるでしょう。彼らは自分たちの必要から道を作ったと考えたことでしょう。しかし、ローマ帝国(ていこく)のよく舗装(ほそう)された道さえも、すべて福音のために、神様が備(そな)えられた道になったのです。すべての道はローマに通じると言(い)われる、その道を通って、ローマから世界へと福音が伝播(でんぱ)されました。また、キリストが来られるまでにあらかじめ準備された数多くの思想(しそう)がありました。それだけでなく、預言者を通して私たちに与(あた)えられた数多くの約束がありました。それに従(したが)って福音が私たちのもとにまでやって来たのです。

[ローマ書 1:3] 御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫(しそん)から生まれ、

パウロはここで福音の基本について説明しています。「御子(みこ)に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫(しそん)から生まれ」たと言いました。キリスト教が語(かた)る神の御子の美しい人生の物語は、御子がこの世の中でご自分を無にされ、私たちと共に生きられた出来事(사건/일)です。ご自分を低(ひく)くされ、空(むな)しくされた出来事であり、私たちの生の中に受肉(じゅにく)され、自己をへりくだ(謙/遜)られた出来事です。ピリピの信徒たちにもパウロは次のように言いました。
「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、7 ご自分を空(むな)しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現(あらわ)れ、8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従(したが)われました」(ピリピ 2:6-8)。
ご自分を低くされ、空(むな)しくされたこと。ギリシャ語では、これをケノーシス(ギ:κένωσις / kénōsis、英:the act of emptying)と言い、神の御子の自己(じこ)卑下(ひげ)を意味します。福音は、神の御子に関する美しい愛の物語だと言いました。その物語の始まりがどのようになっているでしょうか。御子がご自分を低(ひく)くし、空(むな)しくされ、へりくだって、罪深い私たちの現実の中へと訪(たず)ねて来られた出来事から始まっています。なぜキリストはそのようになさったのでしょうか。それは罪深い私たちを救うために他(ほか)なりません。

キリスト教の信仰告白であるキリスト論の核心(かくしん)は何でしょうか。イエスは真(しん)の神であり、真の人間(Vere Deus & Vere homo)だということです。今、パウロは、"Vere Deus"である以前に"Vere homo"なるお方であると証言(しょうげん)しています。ともすれば、罪深い世界から逃(のが)れようとし、栄光の御座(ござ)と冠(かん)だけを切望(せつぼう)する私たちにとって、神の御子の偉大な生は非常に大きな挑戦(ちょうせん)となります。受肉(じゅにく)は、神の御子が飼(か)い葉(ば)おけでお生まれになった驚(おどろ)くべき誕生物語です。真理の本体(ほんたい)であられる神の御子が、私たちの人生の真理となられ、私たちと同じ人となって罪多き現実の中に降(お)りて来られたお話です。パウロは、御子もまた私たち同様(どうよう)、肉体(にくたい)をお持ちであったことを「ダビデの子孫(しそん)として生まれ」と表現(ひょうげん)したのです。これは、私たちの人生の中へと入ってこられた、愛なるお方である神の御子を証(あか)しするものです。御子の人生は謙遜(けんそん)そのものでした。この御言葉が私たちに挑戦(ちょうせん)を与(あた)えます。神の御子が、歴史的なイエスとして私たちの生の中へと入ってこられ、死から復活されました。真(しん)に低くなられたことによって、高くなられたお方です。
すべての哲学者(てつがくしゃ)たちの望みは、"Universal logos"(宇宙的真理)を見つけることでした。数多くの人々が真理を求(もと)めて彷徨(さまよ)いました。「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」(ヨハネ 14:6)。"The logos"(真理)がここにあると証言(しょうげん)しています。それはどのように始まっているでしょうか。罪悪の世界に介入(かいにゅう)された出来事から始まります。神様の御子は、もどかしさの中に閉じ込められていた世のすべてを一度に照(て)らす大きな光として来られたのです。

[ローマ書 1:4] 聖なる霊によれば、死者(ししゃ)の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。

聖い御霊は美しく、まばゆいばかりの大きな光です。パウロが理解したキリストは、美しく、輝(かがや)かしい聖(せい)潔(きよし)の霊でした。これはまた、主が私たちをそのように神聖(しんせい)で、聖い者としてくださる、という意味もあります。

「死者(ししゃ)の中からの復活により」パウロは、イエス様がご自分を低くされ、十字架で死なれたことでこの世界からいなくなってしまわれたのではなく、死者の中から復活されたのだと証言しています。福音のメッセージの核(かく)となるキーワードは復活です。<4節>はパウロのキリスト論だと言えます。イエスがキリストである理由は、彼が死んで再びよみがえられたからだということです。イエス様のご生涯(しょうがい)は33年でしたが、そのうちの30年は私生涯(ししょうがい)、そして3年は公(こう)生涯と呼ぶことができます。 30年よりも3年がより重要であり、3年よりも3日(みっか)がより重要です。 3日は十字架と復活を指(さ)します。十字架とは何でしょうか。自分を空しくすることであり、自分を低くすることです。それは犠牲(ぎせい)であり愛です。では復活とは何でしょうか。命(いのち)です。愛による命です。それがまさに永遠の命です。十字架を知らずして復活を知ることはできません(ルカ24章、エンマオに行く弟子)。今、パウロは死から復活されたキリスト、死に打(う)ち勝(か)たれたキリストについて話しています。これは、空(そら)になったお墓(はか)の出来事です。すべての命ある者たちの最後の監獄(かんごく)がお墓(はか)です。この地上に生きたすべての人は、権威者(けんいしゃ)であれ金持ちであれ、知識人(ちしきじん)であれ賢人(けんじん)であれ、いかなる才(さい)に長(た)けた人であれ、その終局(しゅうきょく)はみな等(ひと)しくお墓(はか)という監獄(かんごく)だったのです。しかし、主はそこに閉じ込められることなく、復活されました。死の権勢が永遠の命を閉じ込めることは出来ませんでした。

「死者の中からの復活により、力ある神の子として公(こう)に示(しめ)された方」キリストは復活の力によって神の御子と認(みと)められたということです。「私たちの主イエス・キリストです。」 使徒は、キリストの名をこのように長い形(かたち)で書き記(しる)しました。それは最(もっと)も完全な名前です。彼は私たちの主イエス・キリストであられます。このお方は神の約束に従って私たちの生の中へと来られ、愛の勝利をおさめられたお方、死に打ち勝たれて復活されたイエス・キリストです。これがまさに福音です。

[ローマ書 1:5-6] この方によって、私たちは恵みと使徒の務(つと)めを受けました。御名のために、すべての異邦人の中に信仰の従順(じゅうじゅん)をもたらすためです。6 その異邦人たちの中にあって、あなたがたも召(め)されてイエス・キリストのものとなりました。

「この方によって、」これは、私はキリストによる私であり、その神の御子による私であり、その恵みによる私であるということです。その涙と苦痛(くつう)、言い表(あらわ)すことのできない、私たちに向かう無条件(むじょうけん)の愛、それを恵みと言います。私たちに向かうこの思いがけない知らせと思いがけない贈り物を恵みと呼びます。パウロはこの恵みによって、使徒という高尚(こうしょう)な称号(しょうごう)を得(え)たのだと告白しています。

「恵みと使徒の務(つと)めを受けました。」主の血の代価(だいか)を払(はら)って買い取られた私であり(第一コリント 6:20)、主の愛の勝利による私であり、そのような私が使徒の務(つと)めを受けるに至(いた)ったのだと告白しています。「その御名のために」これはイエス・キリストの御名です。それは、すべての名にまさる名です。「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与(あた)えられました」(ピリピ 2:9)。宣教とはイエスの人生の物語とその御名を宣(の)べ伝(つた)えることです。この御名に力があります。この御名が宣布(せんぷ)されると悪魔が離(はな)れていきます。この御名が宣布されるところでは暗闇(くらやみ)が消え去(さ)ります。絶望が消え去ります。死の鎖(くさり)が断(た)ち切られ、新しい命の歴史が始まるのです。

「すべての異邦人の中に信仰の従順(じゅうじゅん)をもたらすためです。」ユダヤ人にとって、異邦人は滅(ほろ)びの陰の下にいる者たちであり、救いから除外(じょがい)された者たちでした。「あなたがた異邦人よ、この恵みがあなたがたにも臨(のぞ)んだということが、まことに感謝すべきことではないか」とパウロは言います。そして、すべての名にまさる名の前に、あなたがたが従順な者となるために、主が私を選んでくださったのだと話すのです。私たちも同じです。まず最初にイエス・キリストに従った私たちには、多くの異邦の人々の中に「信仰の従順をもたらす」という使命が与(あた)えられています。主はそのために私たちを召されたのです。

[ローマ書 1:7] ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召(め)された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。

「召(め)された聖徒たちへ」聖徒とは、聖なる群(む)れのことであり、主の聖なる弟子として召された者たちのことです。パウロはここで彼らに挨拶(あいさつ)をしています。「私たちの父なる神と主イエス・キリストから」すべての祝福は私たちの父なる神と主イエス・キリストからやって来るという事です。より正確(せいかく)に言えば、神の御子である私たちの主イエス・キリストを通してすべての祝福が私たちのもとにやって来るという事です。

「恵みと平安があなたがたにありますように」キリストに従(したが)う人々には恵みと平安がもたらされます。他の言い方をするなら、「キリストに従う人々よ。真の安息(あんそく)があなたがたの中にありますように」ということです。ローマには多くのユダヤ人がいました。彼らは、お互(たが)いに「シャローム」と言って挨拶を交(か)わしました。彼らがどれほど平安な心を持つことを願い、平和に満ちた人生を望んで生きたのかしれません。その平和はどこから来るのでしょうか。それは恵みを通して与(あた)えられます。恵みがまず先にあって、その次に平安が来るのです。「恵みと平安」。私たちの人生の真の平和は、この世をこよなく愛され、ひとり子イエス・キリストを私たちに与えてくださった、その神の愛によって与えられるのです。だからこそパウロは、神様が遣(つか)わされた主イエス・キリストから恵みと平安があるようにと祝福したのです。Ω

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