礼拝説教

義人は信仰によって生きる


2023年05月21日

“義人は信仰によって生きる”
*日時:2023年5月21日、主日禮拜
*場所:福岡アガペ長老教会
*說敎:張サムエル 牧師
*本文:ローマ書 1章16-17

[ローマ書 1:16] 私は福音を恥(はじ)とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得(え)させる神の力です。

使徒パウロが最初に取り上げる(거론하다)この主題は、私たちの信仰の現実において非常に重要な問題であり、私たちに重要な挑戦(ちょうせん)を投(な)げかけるものです。 使徒は次のように語り始めます。「私は福音を恥とは思いません」。ローマはどんなところでしたか?ローマ帝国(ていこく)(Roman Empire)は実に巨大(きょだい)な帝国でした。そのような大帝国に生きていたクリスチャンたちの姿は、周囲(しゅうい)の目にどのように映(うつ)ったのでしょうか?まるで小さなからし種(겨자씨)のようでした。どれ程(ほど)小さな群(む)れであったことでしょうか。パウロは、コリントの信徒に向けて書いた手紙の中で、私たちはあらゆるもののかすのような者たちになった、と言います。「今でも、私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです」(Ⅰコリント4:13)。あなたがたの姿がこうではないか、ということです。その時代、コリントは商業(しょうぎょう)都市であると共に、大きな軍事(ぐんじ)都市でもありました。そのような場所に置(お)かれたクリスチャンの姿というのは、下層(かそう)民(みん)のような、どん底(ぞこ)を生きる人々のようであったのです。 「皆さんがどれほど大きな弾圧(だんあつ)を受け、多くの迫害(はくがい)を経験(けいけん)していることだろうか」。深い霊性を持つ者であれば、どれほど遠(とお)く離れたところにいようとも、聖徒たちの直面(ちょくめん)している深い苦痛(くつう)の世界をよく理解することができます。彼らの問題が私の問題であり、彼らが経験していることが私が経験した事であるからです。
ローマには数多くの知識人(ちしきじん)や権威者(けんいしゃ)がいましたし、世の富(とみ)ときらびやか(눈부신)な帝国の栄光がそびえ(우뚝솟아)立っていました。今は二千年前の残骸(ざんがい)をわずか(겨우)に留(と)める程度(ていど)ですが、その痕跡(こんせき)を見ても、古(いにしえ)のローマ帝国の偉大さがどれほどであったかを知ることができます。その時代の最高の栄華(えいが)を誇(ほこ)った大帝国のど真(ま)ん中に立って十字架の道を宣布(せんぷ)する事が、どれほど恥ずかしく、躓(つまづ)きを与(あた)えるものであったことでしょう。パウロはこの手紙をコリントの地で書き記(しる)しましたが、おそらく(어쩌면/필시)コリントの信徒たちの姿を見ながら、ローマ教会が置(お)かれていた状況(じょうきょう)をも想像することができたでしょう(Ⅰコリント1:26-28)。神様は、どん底(ぞこ)にいた人々、あらゆるもののかすのように見られていた人々、本当に優(すぐ)れた点が何もない人々を呼んでくださいました。土(つち)の器(うつわ)のような私たちの中に宝(たから)を入れてくださいました。哀(あわ)れで、貧(まず)しく、愚(おろ)かで、多くの足りなさを持った幼(おさな)い人々をお呼びになり、神様の驚くべき御心と希望を与えてくださったのです。そして、私たちの両足を力づけてくださり、ご自身の偉大な救いの歴史に参加させてくださいました。「十字架のことばは、滅(ほろ)びる者たちには愚(おろ)かであっても、救われる私たちには、神の力です」(Ⅰコリント 1:18)。十字架とは何でしょうか。十字架は救いをもたらす力です。しかし、滅び行く者にとっては愚かなものです。ユダヤ人はしるしを要求(ようきゅう)し、ギリシヤ人は知恵(ちえ)を追求(ついきゅう)しますが、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのだと言いました(Ⅰコリント1:19-24)。十字架の言葉は、ユダヤ人には躓(つまづ)きを与えるものでした。木につけられた者は呪(のろ)われた者だと考えていたユダヤ人たちに十字架の福音を伝えることは、決して簡単なことではなかったはずです。神の御子の贖(あがな)いの死(し)を証しし、十字架につけられた神を証しするという事は、実に大きな躓(つまづ)きであったのです。また、使徒がこの愛の驚くべき啓示(けいじ)を証言(しょうげん)した時、ギリシヤ人(知識人)は愚(おろ)かだと言いました。一方は躓(つまづ)きだと言い、もう一方は愚かだと言うのです。つまり、十字架の福音は、彼らが探究(たんきゅう)していた知恵とは何の関係もないものであったという事です。しかしパウロには、ローマがどれほど巨大(きょだい)で強大(きょうだい)な帝国であるとしても、福音の力によって救われなければならないのだという強い確信(かくしん)がありました。

今、私たちが見ているコリント人への手紙とローマ人への手紙の中で、使徒がまず伝えたかったのは「救い」です。「あなたがたはこの福音の力によって救われなければならない」という事です。だからパウロは宣言します。「私は福音を恥としません」と。使徒パウロの中にはこのような大胆(だいたん)な信仰がありました。ローマがどれほど華々し(はなばなし)い栄光を誇るとしても、この帝国は死の陰の下にあり、その終局は滅びであること。それゆえローマもまた福音によって救われるべきだという事です。そして、使徒の働きでも、使徒たちの驚くべき信仰を見る事ができます。皆さん、これは二千年前に書かれたはるか遠い昔の書簡ではなく、今日の私たちにも挑戦となるメッセージでもあります。蘇(よみがえ)られたキリストの復活の力と命を経験し、その救いを受けた使徒の声には、獅子のような大胆さが感じられます。ローマの栄光を前にしても、それに抑(おさ)え付けられたり、恥いったりしない勇(いさ)ましさがあります。

「私は福音を恥(はじ)としません」ギリシャ語の原文(げんぶん)を見ると、この言葉の前には「なぜなら」と言う言葉が付(つ)けられています。 ですからここは、「なぜなら、私は福音を恥としません」 (For I am not ashamed of the gospel of Christ, KJV)となります。パウロは、なぜ福音を恥としないのか、そして獅子のように力強(ちからづよ)く、炎(ほのお)のような彼の信仰の源(みなもと)がどこにあるのかを語っています。それは福音によるものです。福音とは原語(げんご)で「戦勝(せんしょう)の知らせ」(Evangelium)を意味する言葉です。つまり、キリストによって罪悪の歴史が終わり、新しい時代が開(ひら)かれたということを告(つ)げ知らせるものです。キリストは愛によって死の権勢に打(う)ち勝(か)たれました。「御子を通して啓示(けいじ)された神の愛の力とその恵みによって救われた私が、どうしてこの喜ばしい知らせ(福音)を恥じることができようか。」彼は私たちにそう問(と)いかけているのです。

「この福音はすべての信じる者に救いを得(え)させる神の力です」福音とは何なのか。よく知られているパウロの簡潔(かんけつ)な定義(ていぎ)は、福音は「救いを得させる神の力である」という事です。「世界のすべての栄光がローマにあるのか。しかし、その帝国さえも神の裁(さば)き、神の怒(いか)りの下にあり、滅(ほろ)びの陰の下にあるのだ」とパウロは語(かた)るのです。(ローマがどれほど罪悪が蔓延(まんえん)し、罪にまみれ(塗れる 물들다)ている都市であったかについては、後(のち)ほど詳しく説明します。) この福音は「裁(さば)きを避(さ)ける事ができないあなたがたに救いを得させる神の力である」という事です。それは、あなた一人の救いにとどまる(止まる·留まる·停まる)ものではなく、全世界を救う救いの力であるという事です。この歴史、この世界は、結局はこの福音によって救われなければならないという事です。世界のいかなる(=どんな)学問(がくもん)や権威の力によっても、この罪悪の世界は救われません。それらによって、この病(や)んでしまった世界が根本的に治癒(ちゆ)されるわけではありません。絶体絶命(ぜったいぜつめい)の危機(きき)に直面(ちょくめん)しているこの世界は(水(みず)に溺(おぼ)れて溺死(できし)寸前(すんぜん)のこの世界は)他のいかなるものによっても救われ得ないのだという事です。それでは、何によって救いが可能となるのでしょうか。福音だけが救いの力だということです。

「まずは、ユダヤ人に。そしてギリシャ人に」 ユダヤ人の観点(かんてん)では、人類(じんるい)はユダヤ人とその他(た)の異邦人(いほうじん)の二つに分けられました。ユダヤ人は神様が選択された民だったので、先に救いが臨(のぞ)むようになりました。その次にギリシア人、つまり異邦人でした。先か後かの違いがあるだけで、救いの恩寵(おんちょう)は選民(せんみん)にも異邦人にも、知識のある人々にも無知(むち)な人々にも、分け隔(へだ)てなく臨(のぞ)むのだとパウロは強調(きょうちょう)しています。そして、「あなたがたも例外(れいがい)ではない」と、この異邦の使徒は語っているのです。

[ローマ書 1:17] なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

この一節は、ローマ書において最(もっと)も重要な句(く)節(ぶし)だと言えます。「福音には、神の<義>が啓示されてい」るとあります。福音の中に何があるというのでしょうか。パウロはそこに「神の義」があるのだと言います。神の義!なぜ使徒は義について語るのでしょうか。私たちは圧倒的(あっとうてき)な罪の陰の下にいるため、罪について話そうとするなら、まず先に神の義を語らねばなりません。私たちは罪が王のように君臨(くんりん)する世の中に置(お)かれており、絶望的(ぜつぼうてき)とも言える罪の暗闇(くらやみ)の中に置かれています。だから、人々は「罪人が義とされる道は何か」と尋(たず)ねてきます。私たちはそれを要約(ようやく)して簡潔(かんけつ)に伝えてあげなければなりません。<17節>は、まさにその完全な要約となっています。

今、どうして神の義を話すのでしょうか。罪人(ざいにん)が義人(ぎじん)となることのできる道とは何でしょうか。それは罪と罰(ばつ)の方式(ほうしき)に則(のっと)って罰を受けることです。私たちが福音を理解するには、その大前提(だいぜんてい)として律法をよく理解する必要があります。まず、律法の中にある人間の霊的(れいてき)状況(じょうきょう)、霊的(れいてき)実存(じつぞん)が何であるかを理解する必要があるのです。最初から恵みについて話してしまうと、その本質を理解することができません。ですからパウロは、これを実(じつ)に適(てき)切(せつ)に説明しました。「律法の行(おこな)いによる人々はみな、のろい(呪い)のもとにあります。『律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる』と書いてあるからです」(ガラテヤ 3:10)。パウロは、律法がたとえ神様の御言葉であったとしても、罪人にとっては、それがむしろ呪(のろ)いになると言いました。罪を犯せば罰(ばつ)を受けなければならないからです。律法という法がある限り、常(つね)に罰があるという事です。だから、そこには必然的(ひつぜんてき)に恐(おそ)れが生(しょう)じるのです。律法によって自分の罪を知る事はできますが、その罪から自由となる事ができません。従って、律法の下では、魂が真の自由を得る道を見つけることはできないのだという、パウロの深い苦悩(くのう)を垣間見(かいまみ)ることができます。しかし、パウロは「ついに自由に至(いた)る唯一(ゆいいつ)の道がここに現(あらわ)れた」とパウロは力強く宣言しています。これは実に感激(かんげき)に満ちた叫(さけ)びです。神の<義>が、福音によって示(しめ)されるようになったという事を宣言しています。

「神の義」とは何でしょうか。神様がイエス・キリストを通して啓示なさり、キリストがこの地に来られ、示(しめ)してくださった人間の救いの過程(かてい)が、すなわち神の義であるという事です。「イエス・キリストの十字架の死」を通して、神の義が現(あらわ)されました。義という漢字は、「羊」と「私(我)」の二つが組み合わさってできていて、「私の子羊」という意味があります。また、「我」という漢字は、「手」と「槍(やり)(戈)」が組み合わさったものです。つまり、「義」とは、「子羊が槍(やり)に突(つ)き刺(さ)され、血を流して死ぬ」さまを示しているのです。聖書の御言葉は、その深い意味をさら(更)にはっきりと示しています。すなわち、イエス・キリストの死が、神の義であるということです。グレゴリオ聖歌に、"Agnus Dei"(殺された神の子羊)という有名な聖歌があります。イエス様はなぜこの地に来られたのでしょうか。それは、私たちを救う為です。「イエス」とは、「神様は私たちの救いである」という意味です。人間はみな死の陰の下におり、永遠の刑罰(けいばつ)の下に置かれています。それゆえ、この地上において、人は罪の重荷(おもに)を背負(せお)って生きるしかなく、その重荷から完全に解放されることもありません。そして、死後には地獄(じごく)へと行くしかないのです。このような運命にあった私たちを、神様はこの上なく(더할 나위 없이)愛してくださり、ご自身のひとり子を与(あた)えられたという事です(ヨハネ3:16)。神の御子が来られ、私たちの罪のすべてを背負って死なれたことで、私たちが自由を得るようになりました。神の義が、まさに(바야흐로)イエス・キリストを通して私たちに現(あらわ)されたのです。

「信仰に始まり信仰に進ませる」この信仰とは、どのような信仰でしょうか。第一に、それは主がお立てになった信仰です。十字架の道を歩(あゆ)まれた主の信仰によって義とされた私であるということです。十字架とは何でしょうか。十字架は私たちのための主の愛です。第二に、信仰とは主が私たちの罪を代(か)わりに背負われた、その愛を受け入(い)れる事です。主の十字架と私たちに向かうその愛と信仰を通して、また、その愛と信仰によって立てられた人々の愛の足跡(そくせき)、その苦労(くろう)を通して、今日の私があるようになったのです。

「義人は信仰によって生きる」これはローマ書において最(もっと)も重要な聖句(せいく)であり、宗教(しゅうきょう)改革(かいかく)の基本的精神でもあります。それを簡潔(かんけつ)に説明するなら、神の御子を通して完全に成(な)し遂(と)げられた神の主権的(しゅけんてき)な贖(あがな)いによる救いの御業(みわざ)を、信仰によって受け入れることで救われるということです。この贖い(あがない)による救いの御業(みざ)の核心(かくしん)とは何でしょうか。それは十字架です。私たちがまだ罪人であったとき、主が私たちのために死なれたことによって、神の愛をお示しになりました(ローマ5:8)。この贖いの愛を恵み、もしくは(または)神の義であると言いました。この聖句の焦点(しょうてん)は、「信仰」にあります。信仰によって(By faith)。神が行われた義を私が信じることによって義人とされるという事です。
「信仰を通して実現(じつげん)されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」(ローマ1:17、新共同訳)。韓国共同翻訳聖書では、「義」を「正しい関係」(新共同訳:信仰)と訳出(やくしゅつ)しました。義人になるということは、神様と正しい関係を結ぶということです。人間が堕落することによって、神様との関係が破壊(はかい)されてしまいましたが、ただ信仰によって正しい関係を回復することができるのです。なぜパウロは「信仰によってのみ」ということを強調(きょうちょう)したのでしょうか。そこには非常に鮮明(せんめい)なコントラストがあります。
ユダヤ人は律法を文字通(もじどお)り守り行(おこな)い、それを自らの口で唱(とな)えて記憶するなら、神様に義と認(みと)められるのだと固(かた)く信じていました。それに対してパウロは「そうではない。あなたがたの行いによっては義とされ得ない」と異議(いぎ)をとなえるのです。御子を遣(つか)わされ、私たちの罪を贖(あがな)われた神様の恵みを信じ受け入れる信仰によってのみ、私たちは義とされるのだという事です。そこに私たちの行いが入る余地(よち)は全(まった)くありません。「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です」(エペソ2:8)。この恩寵(おんちょう)は神の賜物(たまもの)だいう事です。ただ与(あた)えられることであって、私たちの功労(こうろう)によるものではありません。それは神様が一方的に施(ほどこ)してくださった恩寵なのです。
「信仰」とは何でしょうか。それを受け入れる事です。例えて言うなら、贈り物を受け取る手のようなものです。これこそパウロが教えようとする核心的なメッセージです。この神の義を私が受け入れる事が「信仰」なのです。受け入れるとは、簡単に言えば歓迎すること(receipt)です。私の行いではなく、神様の主権的(しゅけんてき)な行為(こうい)である救いを受け入れる事です。永遠の死の運命にあった人間に対して、神様が施(ほどこ)してくださった憐(あわ)れみを受け入れる事です。この恵みは何かの理論(りろん)でも哲学(てつがく)でもなく、神様の一方的な愛なのです。それは愛であるがゆえに、私たちの頭ではなく、心にやって来るものです。その驚くべき神様の恩寵(おんちょう)を、私たちが心で理解するということです。

「人の子が、仕(つか)えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖(あがな)いの代価(だいか)として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい」(マタイ 20:28)。
これが結論です。
「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハネ15:13)。
これ以上に偉大な愛はありません。これがまさ(正)に私たちに対する主の愛でした。このことを私たちが信じる事によって、私たちが生きるようになるのです。(ある番組(ばんぐみ)で、野生(やせい)動物が人間の仕掛(しか)けた罠(わな)にかか(掛)って、もが(踠)き苦(くる)しんでいる映像(えいぞう)を見たことがあります。そこから逃(のが)れようともがけばもがくほど、罠(わな)が動物の体を一層(いっそう)強く締(し)め付(つ)けました。しかし、誰かがその罠(わな)を切断(せつだん)して、動物を逃(のが)してやりました。とても感動的でした。) それと同様(どうよう)に、主が私たちのもとへとやって来られ、私たちを罪の罠(わな)から逃(のが)れるようにしてくださった事が、まさに贖(あがな)いの出来事なのです。ただ信仰によってのみ、ただ恵みによってのみ、ただ福音によってのみ、ただ十字架の愛によってのみ、私たちが生きるようになるのです。

「義人は信仰によって生きる」という言葉は、ハバククという預言者の書から引用されたものです。「見よ、彼の心は高慢(こうまん)であり、見よ。彼の心はうぬぼれていて直(す)ぐで(出)ない。しかし、正しい人はその信仰によって生きる」(ハバクク書 2:4)。
かつ(曾)てイスラエルに二つの王国がありました。北はイスラエル、南はユダでした。バビロニヤ帝国がユダを崩(くず)そうとする時、ハバククは物見(ものみ)やぐら(櫓)に登(のぼ)り、神様に祈りを捧げました。バビロニヤの侵攻(しんこう)から守ってくださり、ユダを滅亡(めつぼう)させようとする槍(やり)と剣から私たちを救ってくださるようにと祈ったのです。神様はイスラエルを守られるお方ではありませんか?「「主はわたしに答えて、言われた。『幻を書き記(しる)せ。 走りながらでも読めるように板(いた)の上にはっきりと記(しる)せ〈新共同(しんきょうどう)訳(やく)〉」(ハバクク 2:2)。神様はハバククに対して、「走りながらでも読めるように、この言葉を心に刻(きざ)みなさい」と仰(おっしゃ)いました。「義人は彼の信仰によって生きる」この言葉の中には、どのような意味が込(こ)められているでしょうか。「世がすべて滅(ほろ)び失(う)せるとしても、世がすべて裁(さば)きと呪(のろ)いの陰(かげ)の下にあり、滅(ほろ)びの穴、地獄の火(ひ)の穴に入る運命にあるとしても、義人は信仰によって生きる。あなたがたは滅びることがない」。パウロはそう語るのです。「ローマにいる皆さん。あなたがたは確かに救いを受け、永遠の命を得(え)たのです。たとえ帝国が衰亡(すいぼう)し、世が滅(ほろ)びゆくとしても、義人は信仰によって生きるのです」。この罪悪の世界において、真に正しく生きてゆこうとする人たちの中には、言い知れない苦しみや絶望、痛(いた)みがあるのではないでしょうか。しかし、義人は心配する必要はない、という事です。皆さん、世界が滅亡(めつぼう)の淵(ふち)に陥(おちい)るとしても、罪悪なる世界に審判(しんぱん)の日が訪(おとず)れるとしても、神様が皆さんを守ってくださり、救ってくださいます。神様は永遠の命の保証(ほしょう)と確信を私達に与えてくださったのです。Ω

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